良忠
良忠
りょうちゅう
(一一九九-一二八七) 然阿良忠。
姓は藤原氏。
然阿と号す。
浄土宗鎮西派。
鎌倉光明寺開山。
正治元年七月二七日、石見国(島根県)那賀郡(現・岩出市)三隅に生まる。
父は円尊禅師(堀川宰相頼定という説もある)、母は伴氏。
十一歳にして『往生要集』の講を聞いて浄土を思い、一三歳、出雲鰐淵寺にて月珠房信暹について書を学ぶ。
一五歳、剃染、受戒。
専ら法華経を誦し霊異を感じ、かつ、『大聖竹林寺記』(唐法照)を読んで西方浄土を念じ、天台・倶舎を究め、真言大法を受ける。
南都に学んで諸宗を修め、貞永元年(一二三二)多陀寺に入り、不断念仏を修す。
筑後上妻天福寺辨長を師とし、論疏を筆受、『領解末代念仏授手印鈔』一巻を草して印可を受ける。
源空の門弟乗願房宗源等を歴訪するなど浄土宗を顕彰した。
後嵯峨上皇の勅を蒙って浄土三部経を講じ香衣上人の号を賜わる。
弘安一〇年七月六日、八九歳にして入寂するまで、経疏の講、および著述多数にのぼる。
日蓮聖人は「念阿」「念阿上人」「念阿弥」「念阿弥陀仏」と表記され、源空の弟子聖光房辨長の弟子(『浄土九品之事』には「源空―聖光―念阿弥陀仏」とあり、断簡六三には「念阿の師は皇覚、皇覚の師は法然」とある)であるため「法然上人の孫弟子」と述べられている。
『本化別頭仏祖統紀』は、聖人、遊学中、然阿の講肆に列すという。
文応元年(一二六〇)七月一六日、聖人の『立正安国論』献進は、松葉谷の夜討を始めとする法難を惹起するのであるが、文永九年二月の内乱や同十一年一〇月の蒙古の来襲(文永の役)は『安国論』の予言的中となって、聖人の確信を一層深めることとなった。
ところが、然阿良忠は新善光寺の道阿道教・長安寺能安・極楽寺忍性らと共に、聖人を讒言し、殺害を謀てていた。
その謀略は『安国論』献進の翌月、松葉谷における草庵の夜討に始まるのである。
文永八年の夏、良観・行敏は道阿弥道教らと共に聖人に四箇の難問を投じて対決を迫った。
聖人はこれに対し、私的な問答は無益であるとし、幕府への上奏を経て、公場において是非を糾明する旨、申し送られた(『行敏御返事』)。
ところが行敏らは聖人との往復文書を添えて幕府へ訴状を呈したため、問注所は慣例に従い、その訴状を聖人の許に回付し、答弁を促した。
聖人はこれに対し、善導・法然・念阿・道阿・良観らの邪義を経文をもって破折された(『行敏訴状御会通』)のである。
聖人は、これらの諸人に対する批評を『開目抄』には「今末法の始には良観・念阿等、偽書を注して将軍家にささぐ。
あに三類の怨敵にあらずや」(定五九七頁)、『小乗大乗分別鈔』には「当世の禅師・律師・念仏者なんど申す聖一・道隆・良観・道阿弥・念阿弥なんど申す法師どもは鳩鴿が糞を食するがごとく」(定七七九頁)と述べられている。
《『遺文辞典』歴史篇「念阿弥陀仏(ねんあみだぶつ)」の項、『日本仏教人名辞典』『岩波仏教辞典』「良忠」の項、『昭和新修』別巻「念阿弥陀仏(念阿・念阿弥)」の項》