日常(常修院・富木常忍)
日常(常修院・富木常忍)
にちじょう
(一二一六-九九)
中山法華経寺の初祖で、院号を常修院、号を常忍と称す。
建保四年に生れ、下総国(千葉県)の守護千葉介頼胤の被官(=事務官)として敏腕を振う。
当時は富木五郎常忍(つねのぶ)といい、(富木五郎胤継と称したという所伝は誤り)八幡庄若宮に住み、国府にある千葉氏の守護所に往復する毎日を送っていた。
かれの役割は鎌倉に駐在する、同じく千葉介の被官の長専と連絡をとって、幕府の命令と情勢を的確に把握することであった。
また下総国・伊賀国(三重県)・肥前国(佐賀県)など、千葉氏が守護職にあり、あるいは所領を持っていた地域における司法・行政上の事務の一端をになっている。
つまり富木常忍は千葉介と常に密着しながら、千葉氏一族を始めとする各地の武士と密接な関係をもち、かつ幕府の要人たちと直接・間接に接触する機会を持ちえたのである。
常忍は千葉氏の被官として盛んな活動を展開していた。
慶長三年から五年(一二五三-五五)の間に、在家のまま出家して、「富木入道常忍(じようにん)」となった。
建長五年の日蓮聖人の清澄山退出も、この時期にあたっている。
常忍が最初に聖人から書状を賜ったのは慶長五年一二月九日のことで、これは中山法華経寺に所蔵する『天台肝要文集』の紙背文書に含まれている。
『天台肝要文』の四〇通ばかりの表文書は、千葉氏の事務官を務める富木常忍のもとに届いたもので、聖人の手紙もその中にまぎれこんでいる。
「昼は見苦しいから、夜に参りましょう」という内容の文言からみると、常忍が清澄山から逃れ出た聖人と最初に会ったのは、下総国の国府でのことであったと思われる。この手紙とは『富木殿御返事』(定一五頁)を指すが実は代筆書状である。
こののち聖人の代表的な檀越として、その宗教活動をしっかりと支える。
富木常忍が聖人から賜った書状は、現存するもので三一通(数値には異見がある)の多きにのぼる。
これらの御遺文は常忍の信仰における軌跡をよく物語っている。
聖人が鎌倉を中心に積極的な布教活動を展開していた頃、文永六年(一二六九)に常忍はその信仰の故に問注所に呼び出され、問注を受けることとなった。
いよいよ公庭に臨もうとする常忍は、その心得を細かに教えた『問注得意抄』を聖人から賜わり、無事にこの試練を乗り切っている。
文永八年になると、蒙古の襲来が現実に予見されるようになり、幕府は九州の防衛を固めるべく、御家人たちに出陣の命令を下した。
このような緊迫した状勢の中で、富木常忍は深刻な困難に直面した。
その一つは師と頼む聖人が幕府に捕えられ、滝口の斬罪は危うく脱れられたものの、佐渡の流罪へと旅立っていったことである。
もう一つは主君と頼む千葉介頼胤が防衛の一翼をになうため、九州の小城(佐賀県小城町)にある所領へ、大勢の従者を引連れて赴いたことである。
常忍は長く仕えた主君と別れて下総に残ったが、やがて文永の役に千葉頼胤は戦傷死してしまう。
聖人が佐渡に流されている間、富木常忍は多くの檀越たちと連繋をとりながら、困難な時期における教団の維持に全力を注いだ。
鎌倉にいる四条頼基や、下総における大田乗明・曽谷教信を始めとする信者たちと共に、信仰を固く守り通した。
このような富木常忍に日蓮聖人は「当身の大事」たる『観心本尊抄』一巻を託したのである。
やがて文永一一年春に、許されて佐渡を後にした聖人を鎌倉に迎えたが、聖人は間もなく身延に隠栖した。
蒙古が来襲してはげしい戦が繰り広げられ、主君千葉頼胤を失ったのは、この時のことである。
富木常忍の悲運は重なった。
建治二年二月の下旬に、九〇歳を超えた老母を失ったのである。
彼は亡母の遺骨を抱いてはるばる身延に聖人を訪ね、仏前に安置して供養を捧げた。
深い悲しみに沈む常忍は、聖人のもとへ隠遁を表明したけれども、聖人は『四信五品鈔』を送ってこれを拒絶された。
こうして俗に徹することを決意した常忍は、建治三年には真間弘法寺(千葉県市川市)に釈迦仏を供養し、日頂を招いて開眼を行った。
また、弘安二年(一二七九)には下総において天台僧の了性・思念と法論を行い、勝利を得ている。
このように聖人の弟子たちの伝道活動を強力にささえながら、身延へ銭や米を送り、教義の質問や世上のことなどをしばしば書き送った。
弘安五年一〇月一三日に聖人が入滅すると、富木常忍は香を捧げてその葬列に加わり、日頂を支えて下総方面の教団体制を固めるべき役割をになうことになった。
聖人の入滅の後、宗門にはさまざまな困難が待ち受けていた。
六老僧の一人に選ばれた日頂は、その打開と新しい伝道に努力したが、その反面、自分が指導すべき下総の地を留守にすることが多かった。
このため常忍はこの地の信者が信仰を退転することを恐れて、ついに日頂を追放するに至った。
次いで自宅を寺に改めて法華寺と称し、常忍を日常と改めて、以前に創立した真間弘法寺と、いま新たに開創した若宮法華寺の両寺の貫首となる。
また及川宗秀を俗別当に任命し、両寺の運営にあたらせたのである。
このように、富木常忍改め日常を中心とした教団体制が出来上ったのは正応五年(一二九二)から永仁二年(一二九四)にかけてのことと思われる。
法華・弘法両寺の貫首となった日常は、当時の基礎を強固なものとして確立するために情熱を傾けた。
永仁七年三月四日、日常は法華寺の置文を制定し、その第一・二条に、本尊や聖教の管理をおろそかにしないことを厳しく定めた。
次いで明後日の六日には『常修院本尊聖教事』を著わし、法華寺に所蔵し後代に伝えるべき本尊と聖教の目録を作成した。
ここに記載された聖人の真蹟遺文は七四点にものぼり、また、写本その他があり量質ともに比類ないものである。
日常はこの置文の中で、日高と日陽(揚)に「日常他界の後」の教団の運命を委ねて、永仁七年三月二〇日、八四歳の生涯を閉じたのである。
《『遺文辞典』歴史篇「富木常忍」の項、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』「富木日常」の項、『国史大辞典』一〇巻「富木常忍」の項》
図版