四条頼基
四条頼基
しじょうよりもと
名門北条氏の義時の長子泰時や、重時、政村らの甥に当る名越の江馬光時に、父中務左衛門尉頼員以来仕えた実直な鎌倉武士である。
頼基は中務左衛門尉、四条三郎左衛門尉とよばれ、左衛門尉の唐名が左金吾校尉であるところから、一般には四条金吾と称された。
初め蘭溪道隆の門に参禅したが、康元元年(一二五六)、二七歳のとき日蓮聖人に帰依して法華経の信奉者になった。
彼は四人兄弟であったらしいが(『種種御振舞御書』)、兄弟中の何男であったのかは分明でない。
ただ『崇峻天皇御書』に「龍象と殿の兄とは殿の御ためにはあし(悪)かりつる人ぞかし」(定一三九四頁)とあるところから、建治三年(一二七七)の桑ケ谷問答のときに竜象房に与同し、極楽寺良観に帰依していたらしい兄がいたことが知られる。
文永八年(一二七一)の竜口法難の折には兄弟四人で聖人を竜口の刑場に護送する馬の口にとりついて同行したと伝えられる。
これが事実かどうかは明らかでないが、前掲の『崇峻天皇御書』に「返す返す今に忘れぬ事は頸切れんとせし時、殿はとも(供)して馬の口に付きて、なきかなし(泣悲)み給ひしをば、いかなる世にか忘れなん」(定一三九四頁)とあり、彼だけは決死の覚悟で聖人に随従した様子がわかる。
文永九年二月に佐渡で著された日蓮聖人一代の代表的著作である『開目抄』が、まずもって鎌倉の頼基のもとに遣わされたことは、彼が当時鎌倉における聖人門下の中心的人物であったばかりでなく、教学的にもかなり信解力のすぐれた指導者であったことを物語る。
また彼は佐渡の流地にあった聖人に、必要な品物を取り揃えて度々使者に届けさせており、その強盛な信仰心がわかる。
文永九年二月の京都六波羅の乱は、北条時宗が執権職を継いだことに不満をもつ六波羅探題の兄時輔が、幕府に謀叛を企てたものである。
この時江馬氏一族が六波羅方に加担したことから、光時も同類の嫌疑をうけた。
このとき伊豆の所領地にいた頼基は、主君の一大事に驚き、早馬にまたがり箱根を越えて、一気に鎌倉に帰り、主君に殉死すべき八人の家臣のうちに加わった。
この事でも彼が実直、至誠な性格の武人であったことをうかがうことができる。
この乱がおさまり、光時の嫌疑がはれたころ、頼基は佐渡の流地に聖人を訪ね、親しく教示を仰ぎ、慰問、給仕した。
聖人はそのことをいたく感激して、彼の妻日眼女に「はかばかしき下人もなきに、かかる乱れたる世に、此との(殿)をつかはされたる心ざし、大地よりもあつし」(定六三三頁)と書き送った。
文永一一年、聖人が身延に入られた直後、頼基は主君光時に面談して良観への信仰をやめ、法華の正法に帰依するように諄々と説いた。
しかし光時はそれを聞きいれず、かえって不興をかい、同輩からは讒言され、受難の日々が続いた。
翌一二年四月の鎌倉の大火で、長谷にあった頼基の邸も類焼し、災難が重なった。
その間、聖人は頼基に対し、主君への奉公と信仰の両立関係について、ねんごろな書状で教導し、とくに妻日眼女の信仰的動揺に際しては、建治二年(一二七六)四月に『王舎城事』という賜書できびしく訓戒されている。
その後も朋輩の中傷が続き、主君との間にも違和が生じて、彼の伊豆にある所領を越後に所領がえという左遷ともいえる事態を迎えた。
頼基は聖人の指示を仰ぎ、主君に仕える家臣の心構えと、信仰者の立場から、遠国越後では主君に急事があっても奉公に間に合わない。
もし所領を召し上げられたとしても、自分は主君に捧げた身であるから、「すてられまいらせ候とも命はまいらせ候べし。
後世は日蓮の御房にまかせまいらせ候」(定一二五九頁)と聖人の教訓に従って主君に返答したので、この件は落着したようである。
建治三年の春に、頼基夫妻が身延の草庵に聖人を尋ねたのは、これらの事件の報告を兼ての訪問であったと思われる。
頼基が身延から鎌倉に帰って間もなく、桑ケ谷問答という事件が起る。
聖人直弟の三位房が、鎌倉桑ケ谷の愛染堂で説法する竜象房という叡山の学僧を論破したのであるが、後になって問答の場に頼基が兵杖武器を帯び、郎党を引きつれ雑口雑言し、三位房に加担したと、主君光時に讒言した同輩があった。
このため頼基は主君の勘気を蒙り、一時謹慎逼塞のやむなきに至ったのである。
この報告を聞いた聖人は、頼基のために陳状一通を代作し、主君にそれを提示させ、彼の奉公と信仰の両立に力をかしている。
ところが同年九月に光時は悪疫にかかり、また頼基を讒言した同輩も病気となったので、医薬、祈祷など手をつくしたが治らなかった。
そこで逼塞中ではあるが、医術にたけている頼基を召して治療をうけることになった。
その結果、彼の誠意ある加療で快方に向い、同時に彼に対する勘気も氷解したのである。
また弘安元年(一二七八)の頃、聖人は身延で病気がちであったが、彼は鎌倉から薬を送っている。
おそらく聖人の晩年の加療生活に、頼基の医術が大きな力となったのではなかろうか。
この年か翌年に彼は身延に聖人を訪れているが、その後彼に対する聖人の書状が伝わらない。
浅井要麟はその理由をこの頃彼の所領であった身延に近い甲州内船の地に隠遁し、聖人のそば近く給仕しえたためではなかろうかと推定している。
聖人入滅の折は、葬送の列に御持経を捧持して連なり、また身延への納骨に供奉して参り、墓所のそばに一庵(のちの端場坊)を建てて常住供養したと伝えられる。
永仁四年(一二九六)三月一五日に六七歳で内船で没し、妻日眼女は正安三年(一三〇一)三月一七日に五九歳で没した。
内船の内船寺は、彼の隠棲の旧址を寺としたものといわれ、この付近に四条姓を名乗る旧家がいまもある。
また鎌倉長谷の収玄庵(現収玄寺)は、鎌倉における彼の邸跡と伝わる。
《『日蓮聖人御遺文講義』一三巻、『本化別頭仏祖統紀』、『身延山史』、『遺文辞典』歴史篇「四条左衛門尉」の項、『日蓮辞典』「四条氏」の項、『昭和新修』別巻「四条金吾頼基」「月満御前」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と四大檀越」の項、『日蓮聖人事蹟事典』(雄山閣)「神奈川」の項、『国史大辞典』六巻「四条頼基」の項》
(新倉善之)
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