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曽谷教信

そやきょうしん #3275

曽谷教信

そやきょうしん

(一二二四-九一)
俗姓は曽谷二郎兵衛信といい、入道して法蓮日禮という。
元仁元年(一二二四)下総八庄曽谷郷にて出生。
系については種々の説があり大野政清の長子ともいう。この説に従えば政清は日蓮聖人の母の兄弟となり、聖人と従兄弟というになる。
一説には畠山重忠の子孫で千葉、千田と氏姓を改め、曽谷郷に住するにより改姓した曽谷道頂の長子であるともいう。
また一説に平氏である道野辺右京の孫ともある。
富木氏の諭導により大田氏と共に聖人帰依し、遊学中の聖人の資縁をなしたともいう。
また一説には文応元年(一二六〇)富木氏が法華堂を建立し聖人を請じ一〇〇日の説法をなした時、大田、秋元氏らと共に聖人に帰依したとも伝えられている。
因みに遺文中に教信の名が最初に出て来るのは文永八年の『転重軽受法門』であり、その時は既に入道を称していたが知られる。
信の聖人に対する帰依は篤く、妻も蓮華比丘尼の名を聖人より授けられ、安国寺棟札によれば三度聖人を請じ説法を欽奉したという。その様子を画いたのが玉沢妙法華寺蔵の説法図として残されている。
長子道崇も入道し聖人の直檀となり、その弟山城日心、日源共に出家し、娘芝崎も平賀の鼻和地蔵堂を再興し、建治三年(一二七七)には日朗を開山とし日伝を迎え本土寺を創し、後妙林比丘尼となり居を改め禮林寺とした。
また舍弟の浄蓮(金原法橋なりとの説あり)、大進阿闍梨、三位房(舍弟に非ずとの説あり)らも出家している事を考えると、教信の聖人に対する篤信が窺い知れる。
従って自らも文応元年曽谷の館に安寺を創し、後大野に移り、建治三年法蓮寺を創し、正応四年(一二九一)五月一日六八歳にて入寂。禮林寺に葬られた。
信は大田氏と共に越中に所領を有する幕府の役人であり、大田氏もまた曽谷に大田屋敷と称される飛地を有しており、聖人も『転重軽受法門』に大田、曽谷、金原氏は異体同心の兄弟の如く思われており、大田氏とは深い血縁があるように思える。
また聖人はこの二人に対し『曽谷入道殿許御書』の中で「貴辺(教信)並びに太田金吾殿越中の御所領の内、並びに近辺の寺々に数多の聖教あり等云云。両人共に大檀那たり。所願を成就せしめたまえ」(定九一〇頁)と述べ、度々の受難により消失した典籍聖教蒐集を依頼している。
また『観心本尊抄副状』に「観心の法門少々之を注し太田殿教信御房等に奉る」(定七二一頁)とある如く、御遺文中最も重要な法門が説かれている『本尊抄』を注して教信にも送っている事、先の聖教蒐集という大事業の依頼といい如何に聖人信に対し篤い信頼を置いていたかが知られる。
信は檀越の中でも屈指の知識階級に属していた。
高木豊は『日蓮とその門弟』で、純漢文体の御書を与えられているのは教信の他に檀越中では富木・大田・大学・波木井・池上・妙一尼の七名のみであり、それは彼らが難解な文体、法門、種々の引用文を容易に読みこなし得たを示していると指摘している。
また信は養にも厚く、慈父が弘長三年(一二六三)に亡くなってから十三回忌迄「釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉り回向」していた。
聖人帰依しなかった故父に一二年間毎朝孝養に努めた教信に対し、聖人は「これこそ実の孝養にては候なれ」と称賛し、教信を敬い「法蓮上人」とまでいっている。
そして蒙古襲来に出陣するやも知れぬ信に対し「日蓮とは師檀の一分なり(略)何の代にか対面を遂げん」と別れを惜しみ励ましている。
しかし実際は出陣しなかったようである。
富木氏に導かれ、聖人帰依した教信は、次第に富木氏と疎遠になり平賀の系統に身を置くようになったのは、教学上の意見の相違が原因か、あるいは所領問題が絡んだのかわからないが、大檀越でありながら何故か『宗祖御遷化記録』にも『御遺物配分』にもその名が記されていない。
《『遺文辞典』歴史篇「曾谷二郎入道・曾谷次郎入道」の項、『日蓮辞典』「曾谷氏」の項、『昭和新修』別巻「曽谷教信」の項、『日本仏人名辞典』「日礼(にちれい)」の項》

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