転重軽受
転重軽受
てんじゅうきょうじゅ
(一)涅槃部経典に属す『大般泥洹経』(だいはつないおんぎよう)の説で、「重きを転じて軽きを受く」と読む。
聖人は文永八年(一二七一)一〇月五日付で、依智から大田・蘇谷・金原の三氏に宛てた書状『転重軽受法門』に「涅槃経に転重軽受と申す法門あり。
先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値せ候へば、地獄の苦みはつときへて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益をうる事の候」(定五〇七頁)と述べられる。
即ち転重軽受とは重き先業が今生につきることなく、なお未来においても堕獄の苦を受くべきものも、現世に真実の仏法を伝えるためにすすんで重苦を受けるならば、来世には重苦を転じて地獄・餓鬼・畜生・修羅に堕ちることなく、人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏になることができるということであり、聖人はこれを法悦をもって語られている。
この教説は文永八年の法難を契機に表白されてくるもので、法華経の行者はなぜ迫害を受けねばならないのか、日蓮聖人はなぜ法難を受けるのかという門下の動揺と疑惑に答えるものであった。
聖人はそのために『法華経』『涅槃経』の所説によってこれを弁証し達成しようとした。
転重軽受をもたらすのは、智慧の力・修善の功徳・護法の功徳の三つとされるが、聖人はとくに『涅槃経』の四依品の「過去に曽って無量の諸罪、種々の悪業を作る。
(略)、或は王難及び余の種々の人間の苦報、現世に軽く受くるは、斯の護法の功徳力に由るが故なり」によって、護法の功徳力によることを主眼としていることがわかる。
『開目抄』においては、『大般泥洹経』を引用し「此の経文日蓮が身に宛も符契のごとし。
狐疑の氷とけぬ。
千万の難も由なし。
一一の句を我が身にあわせん」(定六〇二頁)として、その一語一句の経文が聖人の事蹟に合致するものとして、聖人の現世の受苦は、過去の重罪、謗法の行業がもたらしたものと受けとめる。
そして「今ま日蓮強盛に国土の謗法を責れば此大難の来るは、過去の重罪の今生の護法に招き出せるなるべし」(定六〇三頁)と、聖人自身の弘経者の値難の証しを見い出されたのである。
このように聖人は値難・受難が、法華経の行者としての使命自覚につながる一方では、凡夫としての過去罪業の滅罪行であることの確認を転重軽受の教説に拠ったのである。
また法華経不軽品には「我れ深く汝等を敬ふ、敢えて軽慢せず、所以はいかん、汝等皆菩薩道を行じて、まさに作仏することを得べし」と、不軽菩薩は但行礼拝の仏道を行じた結果、迫害されたが、これを忍受することによって過去の謗法の「其罪畢え已りて」、消滅することができたことを重視する。
このように、現世において受ける迫害を、過去世において法華経の行者に対して行った悪業の報いとしてとらえ、現世において自らが甘受することによって滅罪を成就しようとする。
ここに受難は滅罪の行であるとして、迫害に正面から立ち向う聖人の宗教の基本があるのである。
『開目抄』に示された滅罪の論理は、聖人自身の軌範であるばかりでなく、門弟への支え、教誡としてしばしば遺文に示されている。
池上父子の信仰上の葛藤などはその一つの例である。
(二)日蓮宗の修法では、転重軽受の義に立脚して、法華経をもって専心祈祷しても即利生がなくかえって悪くなることなどがあるが、それはその者が転重軽受の過程にあるので、決して法を疑い軽信せぬよう自戒すべきであると解釈する。
更に祈祷には、顕祈顕応(顕らかに祈祷してあらたかな利益を得る)、顕祈冥応(顕らかに祈祷して冥々に利益を得る)、冥祈冥応(特に祈祷せずとも日常永年の信仰により冥々の利益を得る)、冥祈顕応(日常永年の信仰が顕らかな利益と現れる)の四種の応果があるので、現前の結果の良悪に惑うことなく、現当二世所願満足と決定して大信力をもって行ずるのが法華経の行者の修法の要諦である。
《『遺文辞典』教学篇「転重軽受」の項、『日蓮辞典』「転重軽受」の項》