秋元氏
秋元氏
あきもとし
日蓮聖人の直檀といわれ、姓は藤原氏、名を勝光といい、後に太郎左衛門尉と称し、法名を常法という。
下総国印旛郡白井荘(千葉県白井市)に住していた。
所伝によれば文応元年(一二六〇)日蓮聖人が松葉谷の難を避けて下総若宮に法を説いた折に列席し遂に帰依したといわれるが、秋元氏は富木氏と親戚の間柄であり、曽谷教信氏や大田乗明氏の両家とも親交が深く、遺文辞典歴史篇には「弘安三年に近い時期に日蓮に帰依したかとも考えられる」とある。
後に邸内に法華堂を建立し、これが秋本寺と号され現在に至っている。
曽谷氏、大田氏との関係については、『秋元殿御返事』に五節供の相承について述べた後に「委くは曽谷殿へ申し候。次での御時は御談合あるべき歟」(定四〇六頁)として委細は曽谷殿に尋ねよという。
また大田氏あての『慈覚大師事』では「法門の事は秋元太郎兵衛尉殿の御返事に少々注して候。御覧有るべく候」(定一七四一頁)と記されており、このことからも曽谷、大田両氏とは親しい間柄であったことがわかる。
また姻戚関係であったとする説もある。
秋元という氏については、『吾妻鏡』建長二年(一二五〇)三月の条に、閑院殿(里内裏の代表的なものの一つ。高倉天皇はここで践祚した。建長元年に炎上)の造営にあたる雑掌目録の中に秋元左衛門入道という名が見える。
一説によれば、この左衛門入道なる人は次の如くであるという。
即ち、藤原関白道兼の流れを汲むとされる子孫に宇都宮三郎左衛門尉朝綱という人があり、その孫に弥三郎頼綱という人がある。
この頼綱の子に泰業という人があり、後に入道したのが先の『吾妻鏡』に見える秋元左衛門入道ではないかとするのである。
そして聖人直檀の秋元氏はこの入道泰業の子弟ではないかとする。
しかし文書類を焼失しているために確定は困難である。
なお、秋元氏へ宛てた御消息は『秋元御書』『秋元殿御返事』の二通があるが真蹟は現存せず、行学院日朝の写本と『三宝寺録外御書目録』にその名を見るのみである。
《『遺文辞典』歴史篇「秋元太郎兵衛尉」の項、『日蓮辞典』「秋元太郎兵衛尉」の項、『昭和新修』別巻「秋元太郎」の項》