大田乗明
大田乗明
おおたじょうみょう
日蓮聖人の直檀の一人で、大田金吾・大田五郎左衛門尉ともいう。
乗明(のりあき)と称していたが入道して俗名のまま乗明(じようみよう)と名乗った。
弘安元年(一二七八)の『太田左衛門尉御返事』によると、この年に五七歳の厄年を迎えたことがわかる。
従って聖人と同年であり、貞応元年(一二二二)に誕生していることになる。
『本化別頭仏祖統紀』によると、乗明の祖先は源三位頼政で、丹州五箇の庄、太田城に住していたので大田氏と名のったといい、文応元年(一二六〇)富木五郎が法華堂を造った時、日蓮聖人に帰依することになったと伝え、五郎の妻は乗明の姉であるとも記している。
また建治元年(一二七五)、嫡子太郎を日蓮聖人の弟子とした。
帥阿闍梨(そつあじやり)日高という。
乗明は老後、夫婦別居して葷肉を遠ざけ、袈裟をまとい精進したので、日蓮聖人からも「乗明上人」と呼ばれるようになったという。
後に自身の別墅(しもやしき)を本妙寺とし、弘安五年日蓮聖人が入滅の時は、その病床に侍り、鐘を捧持して葬列に加わり、子息の大田三郎左衛門尉には送歛の列に天蓋捧持の役をとらせた。
翌弘安六年四月二六日に没したと伝えている。
但し「乗明七十六歳」と記してあるが、これは日蓮聖人と同年であることが、既に明らかであるので六二歳でなくてはならない。右は『統紀』説を『御遷化記録』の確実な史料によって修訂して記したものである。
次に『日蓮聖人御遺文講義』(一八巻)によると、大田氏の先祖は、中宮太夫三善康信で、子の民部大夫康連が、備後国太田荘にいた関係で、大田の姓を名乗ることになったとし、康連は鎌倉問注所の執事を務め、乗明はその子であるとしている。
これは『門葉縁起』の説によったものと考えられる。
乗明は父と同じく問注所に出仕し、左衛門尉になったが、所領は越中にあった。
富木氏と共に日蓮聖人の初期からの信徒で、天台真言の旧宗を捨て、建治元年に次子を日蓮聖人の弟子とした。
これが中山第二世となった日高である。
また弘安元年に入道して、法名を妙日と改めた。
弘安六年九月二六日、寿六二歳で逝去したと伝えており、先の『統紀』の説とは相違を見せている。
このように異説もあって乗明の家系については一定していないが、下総の地における日蓮聖人の有力な檀越の一人であったことには間違いない。
文永八年九月一二日に龍口法難・佐渡流罪の報に接した時は、蘇谷入道・金原法橋と共に日蓮聖人を依智に慰問して、一〇月五日付で聖人から三人に宛た御書『転重軽受法門』が与えられている。
文永一一年に日蓮聖人が身延へ入山された後も、しばしば供養の品々を送り、外護丹精をぬきんじたのである。
即ち同年八月六日の『異体同心事』によると「白小袖一つ、あつわたの小袖、はわき(伯耆)房のびんぎに鵞目一貫、竝にうけ給はる」(定八二九頁)とあり、弘安元年の四月には「御布施鳥目十貫・太刀一・五明(あふぎ)一本・焼香廿両」を送っている。
『身延山史』によると「太田乗明氏本迹勝劣の異見を懐持せるを訓誡篤示せられ」たとしているが、乗明に与えられた御書を見ても主として真言・天台の人師の説について批判を下し、時には十二因縁について語り、また寿量品の要旨を述べるなど、教養についても深い解説がされている。
更に最も重要な『観心本尊抄』の直接の対告衆として富木・曽谷と共にその一人に挙げられている点等から考え、門下檀越の中でも、最も秀れた有力篤信の人であったことがわかる。
またその妻も夫乗明と共に、古から日蓮聖人に帰依し、その教化に浴している。
『日蓮聖人御遺文講義』によれば「下總国道辺右京の孫、又は曽孫であって、〈於経〉と呼び、聖祖と姻戚関係があったと伝へられている」と記されている。
建治三年一一月の『太田殿女房御返事』によると「柿のあをうらの小袖、わた十両」を身延へ届けたり、また弘安三年七月の『御返事』では「八月分(やつきぶん)の八木(こめ)一石」を送って、夫妻で外護に尽していたことがわかる。
同御返事によると、即身成仏は法華経にかぎることが説かれ、爾前諸経の即身成仏は名のみであって実義にあらざることを説き示している。
特に真言宗の即身成仏の説は経文に説かれてはいても、この義は体験されていないとしている。
これは乗明がかつて真言宗を信じていたので、あえて法華経との勝劣を判じるためでもあったといえる。
『境妙庵目録』によると、この女房は日蓮聖人の従妹であり、この縁で聖人遊学中の資縁を送り、入滅に至るまで毎月の扶持米を奉ったとしている。またこのことから聖人も大田夫妻を父母に準じ給い、乗明には妙日、妻には妙蓮の法号を授けられたのであるとしている。『祖書證議論』もほぼ同様の説を立てており「比類なき大檀那たるを知るべし」と述べている。
先の『異体同心事』によれば、伯耆房や佐渡房および弁阿闍梨を始めとして熱原の人々とも、何らかの関係があり、教線拡張の上にも大きな力となった人のようである。
「貴辺は多年としつもりて奉公法華経にあつくをはする上、今度はいかにもすぐれて御心ざし見えさせ給ふよし、人々も申し候」(定八二九頁)とあるのでもわかる。
弘安元年四月の『太田左衛門尉殿御返事』によれば「当月十八日の御状、同じき廿三日の午の剋ばかりに到来」とあり、更に「鎌倉に候し時はこまごま申し承はり候しかども、今は遠国に居住候に依りて面謁を期する事更になし」(定一四九九頁)とあるので、鎌倉に住していたこともあったのではないか、ともいわれている。
『本化聖典大辞林』では、先の『本化別頭仏祖統紀』を始めとする諸書の説を挙げて、解説論証を加えながら、結局は『門葉縁起』や『年譜攷異』の説に従うを可としている。
日蓮聖人滅後は、曽谷教信・金原法橋らと共に、富木常忍(日常)を中心として、若宮法華寺や真間弘法寺を拠点とし、下総地方における教団の発展に大きな力となった。
乗明の子、日高は富木日常のあとを継いで、中山法華経寺の二世となり、聖教の格護に当った。
法華経寺は日常の開いた法華寺と、乗明や日高によって創された本妙寺とからなり、日高によって両寺一主の制が始められた。
《『身延山史』、『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮教団全史』上、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、『遺文辞典』歴史篇「大田金吾」の項、『昭和新修』別巻「太田乗明」の項》(上田本昌)