金原法橋
金原法橋
かなはらほっきょう
佐渡流罪の途上にあった日蓮聖人は、文永八年(一二七一)一〇月五日に大田左衛門尉(乗明)、蘇(曽)谷入道と、金原法橋に宛てて『転重軽受法門』という御書を送った。
この書の初めに「修利槃特と申は兄弟二人なり、一人もありしかば、すりはんどくと申すなり、各々三人は又かくのごとし、一人来せ給へば三人と存候也」と述べられている。
金原法橋が日蓮聖人の檀越として現れるのはこの一ヵ所であるが、宛名の三人(大田・曽谷・金原)が、宗教上の問題に限らず、他の面においても常に密接な関係にあったことが窺われる。
金原法橋は房総の雄族として知られる千葉氏の一族で、下総国千田庄金原郷(千葉県匝瑳市金原)の領主であった。
最近発見された史料(中山法華経寺文書)によると、幕府に公事を納入し、下男を所有していることから、金原の地における地頭としての立場にあったと思われる。
日蓮聖人が鎌倉を中心に布教活動を展開していた頃、富木常忍は千葉氏の被官として活躍する一方、聖人の信者としてその伝道生活を支えていた。
下総国の諸地域に住む武士たちは、守護の千葉氏とのさまざまな交渉に当って、実際には事務を司どる富木常忍と折衝を重ねた。
金原氏もこれに例外ではなく、建長五年(一二五三)ころには下人のこと、公事のことなどで富木常忍に相談を持ちかけている。
このような機縁によって、富木常忍に導かれて日蓮聖人の信者となったのであろう。
ところで金原法橋の住む金原郷には、安久山堂という寺院があり、後に日蓮宗の寺院として改宗した。
その住職が金原氏惣領で後に出家した覚諭であり、当寺の歴代は「日諭・常諭・覚諭」と次第する(円静寺板本尊)。
この日諭の頃がちょうど日蓮聖人在世の当時に当るから、金原法橋が日諭と号したことは恐らく間違いないと思われる。
しかし史料上の制約によって断定するまでには至らないとしても、少なくとも千田庄の金原氏であることは見当づけられる。
従来、金原を「キンバラ」と読んでいるが、これは駿河在住の一族金原氏の読みを伝承したものである。
《『遺文辞典』歴史篇「金原法橋」の項、『昭和新修』別巻「金原法橋」の項》