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大学三郎

だいがくさぶろう #1320

大学三郎

だいがくさぶろう


(一二〇一-八六)名は能本、出家して本行院日学。
比企三郎能員の子として生れる。
父能員はの将軍源頼と共に北条氏打倒を謀り(比企氏の乱)、それが失敗して建仁三年(一二〇三)北条時政に殺される。この時に能本は三歳であった(『本化別頭仏祖統紀』には三歳、『日本仏教史』には二歳とある)。このため能本は伯父の伯耆法印圓顕に引取られるが、場所が鎌倉の證菩提寺ではあまりに近すぎるため、京都に上り東寺に身を移し養われた。
能本は京都において成長し学問に励んだ。
文章には卓越した能力があり、特に儒学においては勝れた才能が発揮され、儒者として知られる存在となった。
その才能が認められ順徳皇の侍者相談役に加わり、更に承久三年(一二二一)七月の承久の変において順徳天皇は幕府の手で佐渡へ流されるが、上皇に従って共に佐渡へ渡っている。この年四月に上皇は『禁秘抄』を著しており、文人としての上皇は能本を深く遇した。
嘉禄年中(一二二五-二六)に上皇のもとを離れて再び鎌倉に帰される。
これは能本の姉が将軍頼岐局として嫁しており、更にその子竹の御所が将軍頼経の夫人となったことにより、赦されて幕府に仕え儒官として任用された。その後二〇数年学者としての道を歩んだ。
日蓮聖人との最初の出会いは建長三年(一二五一)頃であろう。
日蓮聖人は建長五年四月二八日立教開宗を宣言された。
これに伴い弘の中心を鎌倉において、同年八月松葉谷に草庵を築いた。
この年一一月には叡山代に同学であった弁公が弟子となり日昭と号した。次いで日朗や富木常忍の入門があり、工藤吉隆、池上宗仲、四条金吾、進士太郎らの入信があい続いた。
文応元年(一二六〇)日蓮聖人は『立正安国論』を著して、能本に文章的な意見を求め、七月一六日に幕府へ上申した。
能本は日蓮聖人の真実を追究する宗教信念に打たれ、同年七月に入信する。この能本六〇歳である。
能本の信仰心は一段と深くなり、自分の屋敷であった竹の御所の旧地に草庵を構え、法華堂と号して日蓮聖人に供した。
能本の篤い信心は能本の母や妻を感化して共に門下の一員となった。
聖人は能本の妻に、文永二年(一二六五)四月一七日に法華経読誦と婦人の月水(月経)時の行法について『月水御書』を与えており、また八〇歳になっていた能本の母の日蓮聖人に対する信心は一段と強いものになった。
このため日蓮聖人妙本の名を与えた。
能本は母を救ってくれる感謝の意をこめ、姉岐局の菩提としてこの法華堂を更に大きくし日蓮聖人に供養した。
日蓮聖人の弘教活動は更に白熱をきわめ、文永八年には佐渡配流となり、文永一一年に赦免となり、同三月に鎌倉へ帰って来る。
法華堂に入られた日蓮聖人は、この法華堂を能本の父能員の法号長興と母の法号妙本をもって長興山妙本寺と命名して開堂供養を行った。この寺が現在比企谷にある長興山妙本寺と呼ばれているものである。
高祖年譜』に「頼経の先室の為に法華堂を立つ三郎の戒号は妙本日学、寺其地に建て扁して長興山妙本寺という」、『別頭高祖伝』に「大学悟入弟子の礼をとりて儒を捨て供給す又小堂を築てこれに居らしむ。高祖窃かに長興山妙本寺と呼ぶ、本化道場の権輿なり」また『日蓮教団全史』上に「聖人在世当時の建立と伝えるが、このころはいわゆる法華堂で、持仏堂法華堂として各地区の弘通根拠としていたものと考えるべきで、聖人滅後それぞれの名称が付せられたものである」といっている。
しかし日蓮聖人は同年五月一二日に身延に向い一七日には波木井の里、南部実長の館に入った。
能本は身延入山後も日蓮聖人の身を案じ礼を尽しあるいは日蓮聖人の病床を耳にするや身延に馳せ、また臨終を間近にした池上の地にも赴き、弘安五年(一二八二)一〇月一三日、日蓮聖人の遷化を見守り、翌一四日に葬送の式が厳修されたときは随身仏を抱いて葬列に加わっている。
能本の妻は弘安七年一〇月一三日と奇しくも日蓮聖人命日を同じくして没し、能本は弘安九年二月一五日、八五歳をもって没している。
立正大学日蓮教学研究所『日蓮教団全史』上、宮崎英修『日蓮とその弟子』、『高祖年譜』、『遺文辞典』歴史篇「大学三郎(だいがくのさぶろう)」の項、『日蓮辞典』「大学三郎(だいがくさぶろう)」の項、『昭和新修』別巻「比企大学三郎能本 附能員」の項、『日興門流上代事典』「大学三□□□□(日興本尊)」の項》

【補記】大学三郎を比企能員の子能本とする『本化別頭仏祖統記』など近世の所伝は、なお検討の余地があるとされる。しかし『大学三郎殿御書』(定一〇八一頁)、『四条金吾殿御返事』(一三〇一頁)、『四条金吾殿御返事』(一三六一頁)、『大尼御前御返事』(一六一九頁、一七九五頁、二五三九頁)などの日蓮聖人真蹟遺文により、大学三郎が富木氏や四条氏に並ぶ有力檀越であり、教義理解者であったことは疑いない(『日蓮聖人遺文辞典』「大学三郎」の項参照)。日興『御遷化記録』(宗全二巻一〇三頁)はこれを裏づける。また中山法華経寺日祐『本尊聖教録』に「安国論一巻大学三郎ノ筆」の記載がある(定二七四〇頁)、立正安国論添削の所伝の信憑を物語るかのようである。

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