阿仏房
阿仏房
あぶつぼう
(一一八九-一二七九)
日蓮聖人佐渡配流中に檀越となり、のちに聖人より日得と法諱を賜わる。
新潟県佐渡市蓮華王山妙宣寺の開山。
古来の寺伝や伝説に依れば、俗姓を遠藤為盛といい、承久の乱で佐渡に遷された順徳上皇に随従した北面の武士であった。
仁治三年(一二四二)に上皇は真野で崩御せられたが、阿仏房夫妻は入道・尼となってこの地に留り、御陵の傍らに庵を結んで上皇の冥福を祈り、念仏する毎日を送った。
阿仏房の房号はその謂である。
文永八年(一二七一)一一月一日、聖人は塚原の三昧堂に居住し、かくして配所の生活が始まったが、このことを聞いた阿仏房は配所を訪れ、宗敵の情を懐いて聖人を攻め、かえって論破されて教化に浴した。
阿仏房の妻千日尼は、夫の阿仏房と共に聖人に帰依し、佐渡における聖人の有力な外護者となっており、その千日尼の法号は、聖人が在島した二年五ヵ月の間、約一千日間の尼の供養に因んで授けられたものといわれている。
佐渡の生活について聖人は『千日尼御前御返事』で「日蓮佐渡の国へ流されたりしかば彼国の守護等は国主の御計ひに随ひて日蓮をあだむ。万民は其の命に随う。(略)いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計ひはさてをきぬ、地頭々々等念仏者々々々等日蓮が庵室に昼夜に立ちそいてかよ(通)う人あるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつ(櫃)をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡の国に生れかわりて有るか」(定一五四五頁)と記している。
また、『国府尼御前御書』では「尼ごぜん並に入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせめをもはばからず、身にもかわらんとせし人々なり」(定一〇六三頁)と述懐され、阿仏房夫妻や国府入道夫妻の供養を感謝している。
また、阿仏房は身延に入山された聖人を追慕し、国府入道と共に、あるいは単身で建治元年(一二七五)六月、建治二年四月、弘安元年(一二七八)七月の三度までも佐渡から九〇歳という高齢にも拘らず身延を訪れている。
阿仏房と国府入道は共に国府に住んでいた。
『国府尼御前御書』には、「阿仏御房の尼ごぜんよりぜに三百文。同心なれば此文を二人して人によませてきこしめせ」(定一〇六二頁)とあり、『千日尼御前御返事』の宛名に「佐渡国府阿仏房尼御前」(定一五四七頁)との記述から、阿仏房夫妻と国府入道夫妻は国府の近所に在住の同志であり、常に行動を共にして聖人に仕えた強信者であったことが知られる。
阿仏房の居住地は、金井町大字新保に「阿仏坊元屋敷」と呼ばれるところがあり、おそらく、この地から塚原や一谷に足を運んだものと推定される。
阿仏房妙宣寺所蔵の「女人成仏の御本尊」と呼ばれる大幅の曼荼羅(一八枚継ぎ)は、聖人が文永一〇年に一谷で書かれ、千日尼に授与したものといわれている。
これは阿仏房夫妻の傑出した信仰の証左とも見ることができよう。
阿仏房日得は弘安二年三月二一日に九一歳で寂した。\
その子藤九郎守(盛)綱は、その年の七月二日に父の舎利を頸に懸けて聖人を訪ね、身延の地に遺骨を埋葬した。
守綱は入道して法華経の行者となり、後阿仏と呼ばれている。
弘安三年の七月一日にも身延の聖人を訪れ、父の墓参をした砌、聖人は『千日尼御返事』にて「子にすぎたる財なし」(定一七六五頁)と守綱を誉め、併せて尼を慰められている。
阿仏房日得の没後は、千日尼、国府入道、後阿仏守綱らが檀越の中心的指導者となって、徐々にではあるが、この頃から佐渡における法華講衆の芽生えがあった。
守綱は康永二年(一三四三)八月一五日に八九歳で寂している。
阿仏房妙宣寺の二世佐渡阿闍梨日満は、守綱の孫で興円といい、如寂房と号し、阿仏房日得の曾孫に当たる。
因みに、妙宣寺所蔵の遠藤氏系図には、〈遠藤六郎為長-為盛(故阿仏房日得武者所)-盛綱(後阿仏・藤九郎左衛門尉)-盛正(妙覚・九郎太郎)-興円(佐渡阿闍梨日満)〉とある。
日満は白蓮阿闍梨日興(一二四六-一三三三)の弟子となり、佐渡における法華弘通の後継者となって、元弘二年(一三三二)七月には旧地新保より阿仏坊を現在地に近い佐渡市竹田の地に移して本堂を建立した。
これが妙宣寺の創立である。
日満は延文五年(一三六〇)三月二一日に八九歳で寂している。
阿仏房日得と千日尼の法華経実践と聖人への帰依・信仰の生活は、後阿仏と呼ばれた守(盛)綱や国府入道等の指導の中から着実に曾孫の日満へと継承されたのである。
阿仏房の出自等については、古来より諸説があって、何れを是とすべきかの裁定には多くの問題を含んでいるが、『千日尼御返事』に依れば「日本国北海の島のえびすのみ(身)」(定一七六五頁)とあり、佐渡の荒々しい田舎武士の出身と解せられる。
しかし、身延と佐渡とを往復すること三度、子の藤九郎は二度、もしくはそれ以上聖人を訪ねていること、また、ある程度教養が高かったことなどから推して、国仲平野の国府に住む経済的余裕のある有力な武士的名主とも見ることができる。
《『遺文辞典』歴史篇「阿仏房」の項、『日蓮辞典』「阿仏房」の項、『昭和新修』別巻「阿仏房・千日尼」の項》
図版