日満(如寂房・佐渡阿闍梨)
日満(如寂房・佐渡阿闍梨)
にちまん
(一二七二-一三六〇)
名を興円といい、如寂房または佐渡阿闍梨と号す。
新潟県佐渡市の蓮華王山・阿仏房妙宣寺二世。
妙宣寺の開山である阿仏房日得の玄孫に当る。「彦日満」と称するのは阿仏房の曽孫であることをいう。
つまり日満は阿仏房日得(遠藤為盛)の嫡子遠藤藤九郎守(盛)綱の長子九郎太郎盛正の次子である。
幼くして白蓮阿闍梨日興(一二四六-一三三三)の弟子となり、富士の重須に遊学するなど、佐渡と重須をしばしば往復していたようである。
嘉暦二年(一三二七)頃日満は、阿仏房日得より代々居住していた旧地新保(金井町大字新保)から、真野町竹田地内の現在地にほど近い場所に移転し、本堂の建立に着手した。
元弘二年(一三三二)七月には法華弘通の道場を完成させた。
白蓮阿闍梨日興は、同月二四日に「佐渡国法華衆等本尊聖教之事」(『宗全』第二巻一四二頁)という定め置き状を日満に宛てて送り、本堂常住の本尊(日蓮聖人直筆)を譲与している。
また同年一〇月一六日付の「定補師弟並別当職事」の記述には「右佐渡阿闍梨日満は、学文授法に於ては日興が弟子たりと雖も代代の由緒有るに依て日蓮聖人の御弟子なり。其故は(略)。然れば阿仏房の跡相続の子孫は、北陸道の法燈たるべきの由日蓮聖人の御筆跡の旨に任せて、日満阿闍梨は北陸道七箇国の法華の大別当たるべき者なり」(『宗全』第二巻一四二―三頁)とあり、日満を北国弘通の大棟梁として法の広宣流布を勧奨している。
建武元年(一三三四)正月、日満は富士で「方便品読不之問答記録」(『宗全』第二巻三九四頁)を書いている。
また康永二年(一三四三)二月には「日代上人重須離山事」(『宗全』第二巻三九六頁)を認め、自らも重須と義絶し佐渡に帰った。
この頃に『日満抄』を記述している。
この年の八月一五日にのち阿仏と呼ばれた遠藤藤九郎守(盛)綱は八九歳で没している。
日満が八六歳の時、妙宣寺を後継の日円に譲り、隠退して号を真成房と改め、延文二年(一三五七)四月、畑野の地(現在の佐渡市目黒町)に長慶山(目黒山)妙満寺を開いた。
延文五年三月二一日、八九歳で寂す。
なお『本化別頭仏祖統紀』の『日満上人伝』は、日満の後阿仏の藤九郎守綱と交錯して記述されており、弘安三年(一二八〇)の『千日尼御返事』や「遠藤氏系図」および妙宣寺の古記録等の記述と相違する点が多々あり信憑性に欠ける。
《『日本仏教人名辞典』「日満」の項、『日興門流上代事典』「日満(如寂房・真浄坊・佐渡阿闍梨)」の項》