六条門流
六条門流
ろくじょうもんりゅう
日蓮教団諸門流のうち、京都本国寺を大本山と仰いだ諸寺院をいう。
その名称は本国寺の所在した京都六条堀川の地名に由来する。
元来、門流は一門・門葉の流派の意であり、師資相承を根幹とした人的関係をもって形成組織されるが、師資の関係の広がりを軸に、それらの寺院が建立され、そこに本末関係が成立してくるので、同時にそれは本末関係によって結合された寺院の組織でもある。
従って門流とは、その門祖を本源とする師資の関係と、その門祖の住した寺院を本山とする寺院との本末関係をもって組織された一つの教団とみることができる。
だが幕藩体制の下で寺院本末の関係が制度化され固定されてくると、必ずしも師資の関係と一体的ではなくなり、本源的には他門流に属する人物が住持職を継承する場合もあらわれ、門流も寺院相互の組織としての一面のみが強調され、やがて人的な師資の関係は、法脈・法縁と称されるようになり、本末関係によって結合された寺院相互の組織体としての門流と区別されてきた。
六条本国寺は摩訶一日印の資妙竜院日静が、一四世紀なかばごろ鎌倉本勝寺(長勝寺とも)を京都に移したのに始まるとされている。
そのころ京都には既に日像の創めた妙顕寺、いわゆる四条門流が先行し、その教線も伸張していた。
後発の本国寺が京都にその地歩を築くためには、必然的に公武に対して宥和的態度をとらざるを得ず、進出の当初より公武と緊密な関係をもったようであり、こうした傾向が、一つには日静をして足利尊氏の甥とする伝承を生み、他方では本国寺ひいては六条門流の特色としての妥協的性格を形成したものと考えられる。
この日蓮聖人・日朗・日印・日静と相承された師資の系統に連なるものが本源的には六条門流と称された。
六条門流の展開の様相をみる一つの指標として、寛永一〇年(一六三三)に本国寺が幕府に提出した『京都本国寺末寺帳』がある。
これは本末制度完成前のもので、本寺の末寺把握も十分でなかった時期に、いわば本末制度確立のための実態調査的な意味での報告であるから、その意味で脱漏等があり、寛永一〇年当時の六条門流寺院のすべてを書きあげたものではないが、その全国的分布の大略的な傾向をうかがうことはできる。
いま、それら寺院の分布を国ごとに数字で示すと次の通りである。
山城16、摂津16、和泉2、河内1、若狭7、越前5、加賀8、能登3、越中11、越後45、佐渡2、尾張19、三河7、遠江2、駿河1、甲斐1、伊豆5、相模30、武蔵16、下総1、近江6、美濃3、信濃8、上野4、下野1、丹波4、丹後1、但馬1、出雲2、石見7、播磨8、備前4、安芸1、周防4、阿波1、豊後2、肥前2、肥後10、日向2
以上二六九ヵ寺を数える。
その教勢は山城・摂津を中心にした近畿地方、越後を中心に北陸地方、尾張を中心に東海地方、相模・武蔵を中心に関東地方、肥後を中心に九州西部地方に特に顕著にみられる。
越後・相模・武蔵の地域は、早くから日印らの布教活動がなされ、また東海地方は、日静の資で別派を立てた円光房日陣の布教が盛んで、これに対抗して日静より本国寺を付嘱されたその資建立院日伝が尾張を中心に強力に教勢拡大に努力し、近畿地方は本国寺創建を機に開拓され、これらの地方における六条門流の発展は比較的に早い時期に行われたようである。
これに対して、九州地方への進出は遅く、本国寺日禛に帰依した加藤清正が天正一六年(一五八八)肥後の領主に封ぜられたのに伴い、その外護のもとに教勢が伸張した。
従って六条門流は地域的には関東・北陸を地盤として発生し、本国寺創建を契機に東海・近畿に教線を拡大し、次いで織豊政権による全国統一・近世大名の成立に伴い九州に進出し、ここに全国的規模をもった日蓮教団中の屈指の門流に成長したといえよう。
なお、六条門流形成の当初、日印は鎌倉本勝寺・越後本成寺を日静に付し、日静はまた日伝に本国寺、日陣に本成寺を付したが、日伝・日陣の間に本迹一致・勝劣の対立が生じ、日陣は本成寺によって日伝及び本国寺より分立。
これが現在の法華宗(陣門流)である。
《『日蓮辞典』「六条門流」の項、『国史大辞典』一二巻「本圀寺」の項》