祈願寺
祈願寺
きがんじ/きがんでら
祈願所ともいう。
本来は朝廷が鎮護国家、皇家繁栄、現世安穏を祈願するために勅令をもって建立した寺を指すものであるが、幕府もこれにならって武運長久、家門隆昌を願って諸国に祈願寺を建立した。
また諸国の領主も領内に祈願寺を建立した。
しかし朝廷の綸旨によるものを特に勅願寺、勅願所と称し、それ以外のものを祈願寺、祈願所と称し区別するようになった。
久遠成院日親は『伝燈抄』の中に、鎌倉妙法寺が勅願寺と称している事を難じ「正しく即位をトせざる人をば、仮使ひ王種たりと雖も其の願所を勅願寺とは号し難し」といって即位のあった天皇の祈願所のみが勅願寺であるといっている。
また妙顕寺の如く勅願寺であり同時に足利氏の祈願寺を兼ねる寺もある。
先祖供養が行われるようになると祈願寺の他に菩提寺を持つようになった。
妙顕寺が勅願寺となって以来、諸山各師は京に進出し盛んに公武権勢との接触を試み、公武の権威、財等を布教伝動の力としたので、公武に対する教化は彼らの意に迎合する態度をとらざるを得ず、摂受的な化儀となり、古来よりの伝統化儀であった不受不施制も王侯除外の不受不施制となっていった。
教団組織の未発達な当時においては、誰一人としてこれを反省する者はなく、公武権勢に近づき、勅願寺、祈願寺となり、僧位僧官を貰う事を栄誉とは考えても、決して謗施を受けているとは考えなかった。
しかし、教団の組織が一応固まってくると反省が行われ、王侯といえども仏法の道理のもとには同じであるという純正不受不施思想が台頭してきた。
久遠成院日親は謗施を受け、祈願する事は謗法であると責め、比企谷妙本寺、平賀本土寺等は日親の言に従って祈願寺たる事を改め、祈願巻数を停止した。
たとえ公武大官といえども不受という規制が生れ、日親の晩年頃には、幕府の行う供養会、祈祷会には不参の申請がとられることもあった。
《宮崎英修『不受不施派の源流と展開』》