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近衛家

このえけ #4930

近衛家

このえけ

京都における日蓮宗は他宗に対する破邪折伏の態をとったため、他宗徒の反感迫害を招いた。 しかし一四〇〇年代から約一三〇年に護法扶宗の優秀な英僧が輩出したこともあって伝道も定着し、ようやく新しい信仰が上流の公武士のに行きわたるようになった。
近衛家においても、近衛関白従一位左僕射道嗣公の子観随が、本国寺日伝の弟子となって得度したため、父道嗣は、その別荘を割いて一浄室を構え、召して法華を義させた。
師日伝は楽説無礙にして音律清雅であり聞く人を飽かすことなかった。 の上帝、これを聞いて僧都位を賜わり、法華の場に寺を造って、広布山本満寺とした。 これは「広宣流布本願満足」の八字より採ったもので、近衛家より出家した玉洞妙院日秀は、京都本満寺の開山となった。
このように近衛道嗣を始め、政、尚通等の近衛家では、外護を尽し、これらの貴族の間からも出家する者が生じた。 このは、わが教団の寺院ならびに出家の社会的地位を高めた。
その他、本宗と近衛家との関係では、京都立本寺一七世霊鷲院日審が、近衛信尋の請に応じて、法華をじたことがある。 信尋公が日審を招請したのは、実は、その子尚嗣を入信させようとの考えからの計らいであったという。 因みに霊鷲院日審は、説法二万余座、受法者九万余人、曼荼羅を授ける事一〇万余幅に及び、後水尾天皇に進講し、「朕仏法に於いて今日疑なし」と悦ばれたという。

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