妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

備前法華

ひぜんぼっけ #661

備前法華

ひぜんぼっけ

備前法華と安芸門徒」という言葉は江戸代以来広く人々に親しまれている。
真宗門徒といえば安芸(広島県)を、法華信者といえば備前(岡山県)を想起するという意味である。
今日、岡山県下各地で道のほとりに「南無妙法蓮華経」「南無日蓮大菩薩」「南無大覚大僧正」などと刻まれた供養塔が数多くみうけられる。
これらの石塔から多くの魂が題目への信仰によって安らぎを得ていたかをしのぶことができる。
備前に法華宗を最初に布教したのは大覚である。
大覚が備前に最初に入ったのは旭川河口の浜野で、この地の豪族多田氏の帰依を受け松寿寺を創建し、次いで二日市に妙勝寺を創建。
これが備前法華の始まりである。
大覚が精魂を傾けて備前に弘通したのは元弘の末頃(一三三三)から康永(一三四二)にかけての一〇年前後とみられるが、とくに暦応年(一三三八-四一)前後の遺跡遺墨が多い。
一遍聖絵』で有名な備前福岡にも巡錫され(説法の旧址に実教寺が建立され明治中期、現在の瀬戸町鍛治屋に移転)、今日岡山県下に大覚によって開創されたと称する寺伝を持っ寺院は、おそらく二〇ヵ寺以上を数える。
寺伝のすべてを歴史的実とは断定し難いが、大覚の布教がいかに大きな役割を果していたかを知る傍証となり得るかもしれない。
松田氏入信の経緯について元禄版『道林寺縁起』は次のように伝えている。
『源平盛衰記』にその名の出てくる備前の古刹、福輪寺はその座主良遊が大覚に宗論をいどみ逆に折伏せられ一山ともに法華宗に転じた。
富山城主松田元喬は名刹の転宗を嘆き、大覚と真言僧を城中で宗論によって正邪を糺さんとしたが、大覚に教化されて法華宗に転じ、やがて一寺を創立し、自分の法号蓮昌院殿にちなみ蓮昌寺と名づけた。
また福輪寺は松田氏の尽力によって修復再興されて妙寺と改称した。
元喬の子、元成は居城を金川に移して妙寺を建て、城中に建てた道場は道林寺となり、その子元満は出家して日精と称し、元成の子元勝は妙覚寺日寮に帰依し、父戦死の地矢上(現・熊山町弥上)に大乗寺(寛文年中廃寺となった)を建て、線を伸張させていった。
松田氏が武力、政治力を背景として、領内の他宗寺院を次々に改宗させたのもこの頃のことである。
このの消息はかなり後世の史料であるが、土肥経平の『備前軍記』巻三に「松田近年日蓮宗を甚以て信仰して、吾領内の寺々を其宗に改めさせ、したがはざる寺を焼はらひける金山観音寺吉備津宮など放火せし此時なり金川城中にも日蓮宗の道場を建立しければ、中の兵士も領内の百姓も左近将監をうとみ退去するもの多し」と伝えている。
近世初期、不受不施義がキリシタンと共に禁教されるにいたった後も、備前が長く不受不施派の地盤として存続し、僧侶や信徒の多くが幕藩体制のきびしい弾圧の嵐の中に固く信仰を守り続けていったことは、中世以来の備前法華宗が妙覚寺の門流であったという歴史的背景があった。
備前法華の呼称はある意味では、備前不受不施につながるものであったともいえる。
ともかく松田氏の強力な保護政策にたすけられて、著しく教勢を伸展させ、人々の間に法華信仰を深く植えつけていき、法華信仰の深まりのなかから、日蓮宗史上注目すべき現象の出現をみた。
それは備前を中心として日現、日典、日惺、備中から日樹らの名僧を輩出せしめたことである。
名僧知識の輩出は、単に松田氏のごとき上からの政策による政治的結果としてだけでは説明し得ないものがある。
大覚以来、幾多の日蓮宗僧侶の根強く絶え間のない教義の伝道が広く人々の間に滲透し、またこの教義を受容した多くの民衆が彼ら自らの生きる心の支えとして機能し得た時、初めて備前法華の名称が可能であった。
宇喜多秀が領主の時、宇喜多の中がキリシタンと法華派に分裂、対立し、法華派が迫害されることがあっても、その勢力が微動だにせず近世へと承け継がれていったことも、その強信のほどが推察される。
《『日蓮辞典』「備前法華」の項、『国史大辞典』一三巻「妙実」の項》

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