妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

小善成仏

しょうぜんじょうぶつ #1870

小善成仏

しょうぜんじょうぶつ

とは人界と天界の衆生が行う微小の善事、善行のことであり、これは菩薩界や界の大に比べると小ということになる。 つまり小とは衆生における小分の善根のことであって、法華経以外の諸経典では、衆生の小善根ではに成ることができないとされていたのである。 ところが法華経方便品では衆生の小善根の中にも仏種を認め、仏種の縁によって、遂に仏果を得ることができるとするのである。 衆生の小善根を開会して成仏を認めるから小善成仏というのであるが、これは法華経にかぎるのである。
台は『法華文句』の中で「今の経(法華経)には小善の成仏を明す。 此れ縁因を取て仏種と為す。 若し小善成仏を信ぜざれば、即ち世間の仏種を断ずる也」(『正蔵』三四巻七九頁a)と述べている。 法華経以前に説かれた諸経典は、すべて衆生の根を円熟せしめるための手段・方法として説かれたえであり、低いえから高いえへ、また浅いえから深いえへと順次に説かれたえであった。 この段階にあっては、世一般の小を修したのみでは、に成るための何の足しにもならないとして、更にその上にある大へ向かわしめるための弾訶が行われたのである。 しかし法華の会座まで来ると既に衆生の根性は、レベル・アップされているので、直ちに大の妙法が説き示されていったのである。 この妙法はの究極の教えであり、最高の法門であるので、一念信解衆生、小の者をもよく救うことのできるえである。 あたかも高山の頂きに降った雨水が、よく深奥の谷底をうるおわすように、最高のえたる妙法こそが、よく末法の小善の機根を救うことができるのである。 従って小善成仏は法華経にかぎることになる。
日蓮聖人は『守護国家論』の中で、小善成仏にふれ、先の天台の文を引用し更に「妙楽重ねて此義を宣て云く、此の経(法華経)は遍く六道の仏種を開す。 もし此の経を謗ぜば、義断に当る也」(定一〇五頁)と記している。 妙法は六道の仏種を開会し、仏界に悟入せしめようとする経力を持つのであるから、人・天の小善根を開会して成仏せしめることは、むしろ当然であるといえる。 もしもこのことを疑い、この経を謗ずる者があるとしたら、その人はまさに仏種を断ずることになるというである。 法華経以前の諸経が様々なえを説いて来たが、それらはすべて法華経を説くための手段として説かれたえであるから、法華経が説かれたことによって、初めてその価値が認められることになる。 爾前の小善も法華経に帰入することにより、開会されて得脱をうることになる。 仮に法界において大善と肩を並べる教えがあったとしても、法華に帰入しなければ善根となることができないのである。 従って法華経を謗ずる者は、仏種を断ずるものであるとする。 つまり小の者が、そのままで成仏が認められるというのは、法華の開会により、妙法五字の光明に照されることによって、小善の者も本有の尊形を発揮できる。
ただし『南条兵衛七郎殿御書』や、『月水御書』及び『千日尼御前御返事』等には、「小善に付て大悪の起る事をしらず」といい「善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕るなるべし」(定三二三頁)と訓誡し、「弥陀念仏の小をもって法華経の大を失ふ。 小念仏は大悪の五逆罪にすぎたり」(定一五四三頁)と警告している。 これらの文から考えると爾前の諸経は、法華経によって初めて開会され、小善としての善が認められるのであるが、この小善は法華経の大善を謗じたり、または失うことによって、忽に悪道に堕ち、大の五逆に過ぎたとなることがわかる。 ち、謗法の小は、大よりも恐ろしいとなることを知らなくてはならない。
また『立正安国論』の中では「汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一に帰せよ。 然れば則ち三界は皆なり」(定二二六頁)と述べている。 この「実乗の一」とは、言うまでもなく、法華経のことであり、一大たる法華経に帰入することによって、この娑婆世界はそのまま土となることができるとするのである。
以上の如く小については、法に約した場合と、機根に約した場合とがあるが、更に法を弘める人師についても、小を弘める師と、大を弘める師とに分けられる。 日蓮聖人末法という法華経の弘まるべき時に生れ、経文の如く迫害に遭いつつも、身命を惜しまず題目の流布に努められたのであるから、まさしく「法華大の師」ということができる。 この大の師によって導かれた者は、たとえ小であっても仏果を得ることができるのであり、小善の成仏は大善の師による引導をまたなくてはならない。 末法における本未有善の機は大善の導師(仏使上行)によって、直に下種を受け、同時に脱益を得ることができるのである。 また過去において下種を受けたことのある本已有善の機は、諸経における熟益を経て法華経に至り、脱益を得ることになるのである。
なお薬草喩品では三草二木の譬えをもって小善は小善の立場で、または大善は大善としての立場にあって、それぞれに成仏の果を得ることができることを明らかにしている。 つまり十界のすべての衆生が各の立場にありながら、十分に実力を発揮して仏果を得るのである。 小の者も大の者も、ひとしく仏果を得ることができるのは、法華経の特色とすべきところであり「絶対平等のえ」といわれている由がここにある。
《『遺文辞典』教学篇「小善成仏」の項》

← 事典トップ