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恵心

えしん #2180

恵心

えしん

(九四二-一〇一七)
恵心僧都源信のこと。\\平安時代の天台宗の僧で、天台慧心流の祖とされ、また日本浄土の基礎を築いた。
慶五年、大和葛下郡当麻郷(奈良県葛城市當麻)に生れる。 父は占部正親、母は清原氏。
七歳にして父に死別、九歳のとき比叡山に登り良源に師事し、一三歳で得度
一五歳にして法華八講の師に任ぜられ学才の誉れ高かった。
顕密両教を学び天台教学を究め、三二歳で広学竪義に預り、内供奉十禅師に補せられたが、名利を忌み、天禄年間(九七〇-九七三)横川恵心院に住し、修行と著述に従した。
四三歳の永観二年(九八四)『往生要集』を起草し(翌寛和元年成る)、良源の天台法華と念仏の融合を説いた思想を発展させ、厭離穢土欣求浄土念仏最勝を説き、永延元年(九八七)にこれを宋国に送り、日宋両国の交流を図った。
一方、横川に二十五三昧会を結び念仏三昧を修して宗教的実践に努め、更に四季講、霊山釈迦講を修して学の基礎的研究にも取組んでいる。
五九歳の長保二年(一〇〇〇)に覚運と共に法橋に叙せられ、寛弘元年(一〇〇四)には権少僧都に任ぜられたが、同年一二月その職を辞して山谷に隠棲し、偏に浄土を修するに至っている。
僧綱辞任後、その著作活動は活発となり、寛弘二年『大乗対倶舎鈔』を撰し、翌三年に『一乗要決』を著して、五性各別、三乗真実一乗方便と説く法相宗教学を破折し、一切衆生悉有仏性の法華一乗を真実であると主張した。
更に『白骨観』『阿弥陀経略記』等を著して念仏の実践に精進し、寛仁元年(一〇一七)七六歳の生涯を卒えた。
その著作は『恵心僧都全集』(全五巻)に収められている。
日蓮聖人は、その初期の著作においては、浄土往生念仏を説示した『往生要集』の撰者としての恵心と、法華教学を樹立した『一乗要決』の著者恵心の二面から把え、『要集』は末法の衆生を法華経に導き入れるために撰述したのであり、それ故に後年『要決』を撰述したと見て、初期の浄土教批判では恵心を源空浄土教から引離している(『守護論』定一〇四、一〇九、一一〇頁)。 また『一乗要決』の「円機純一」の文を、法華経を日本有縁の経とする文証として引用し(定六八、一二九、三二四頁)、法華思想史上の先師としている。
しかし聖人は天台沙門の意識を払拭し、天台教学からの独立と浄土教批判の激化する後期の法華本門中心の立場からは、恵心の果たした浄土教史上の役割を確認し、恵心を末代の学者をして法華の本心を失わせた者、浄土教興隆の元凶とし、円仁・安然と並べて法華経・最澄の獅子身中の虫と批判した(『撰抄』定一〇四七、一〇五二頁)。 更には『智妙房御返』(定一八二六頁)では、善導永観源空と並べて「大」と呼ぶに至っている。
《『遺文辞典』歴史篇「恵心・慧心」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と源信」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』『日本仏教人名辞典』『国史大辞典』五巻「源信」の項》

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