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宿屋入道

やどやにゅうどう #1800

宿屋入道

やどやにゅうどう

(生没年未詳) 得宗被官として北条氏に仕えた鎌倉代の武士。
日蓮聖人は文応元年(一二六〇)七月一六日、宿屋入道の手を通して前執権北条時頼に『立正安国論』を上申した(定四二一頁)。
こえて文永五年(一二六八)正月蒙古からの国書到来を見、『立正安国論』の予言的中を確信した聖人は、八月に宿屋入道に書状を送り、時の執権北条時宗への内奏を望んだ(定四二四頁)が、これは宿屋入道がにぎりつぶしたらしく返報はなかった。
聖人は再び書状を宿屋入道に送り、私の依頼を忙しくて忘れたのか、それとも軽んじて返事をくれないのかと責め、もし万一蒙古襲来の態が生じるならば、それは対策あるを知って奏しなかったあなたの責任になるであろうと警告し、かかることをいうのは恩に報じようとするからであると述べている(定四二五頁)。
日蓮聖人の遺文には「宿屋入道」(定四二一・四二七・四二八頁)、「屋戸野入道」(定四二二頁)、「宿屋左衛門入道」(定四二五頁)、「宿谷禅門」(定四四三頁)、「野戸野入道」(定二五二七頁)とみえているが、ヤドヤの姓氏の記載の仕方が一定していない。
恐らくは宿屋以外はその音を借りて字を当たものであろう。
また聖人の遺文中では宿屋入道はその実名が明らかではない。
吾妻鏡』によれば宿屋左衛門尉は入道して最信といい、頼の近臣で得宗被官の有力者の一人、いわゆる「御内人」、「御内仁」といわれる人々に属していた。
元応元年(一三一九)の頃の成立とみられる『沙汰未練書』が、将軍奉公の地頭・御人等を「外様の者」といい、相模守殿(高時)御内の奉公人を「御内の者」と記しているように、北条氏宗の被官人は概括して一階層となり、外様に対する御内の存在を確立させている。
その中でも宿屋入道頼に侍した腹心の一人であった。
弘長二年(一二六二)西大寺叡尊(一二〇一-九〇)が鎌倉に下向してきた時、宿屋左衛門入道最信は時頼受の使者となっている。
更に翌三年十一月一九日には、頼臨終に臨み、心静かに臨終したいというので、宿屋左衛門尉法名最信らは群参の人を禁制するように命じられ、その二〇日には御内人の腹心、いわゆる祇候人といわれる人々、武田五郎三郎・南部次郎・長崎次郎左衝門尉・工藤三郎左(右)衛門尉・尾藤太・安東左衛門尉それから宿屋左衛門尉の七人は詰めて、二二日、頼の臨終を看取っているのである。
本化別頭仏祖統紀』によれば、宿屋入道は左衛門光則、入道して西信という。
日蓮聖人佐渡に流されたとき、日朗ら六人は宿屋入道の監督下に牢獄に投ぜられたが、宿屋入道は彼らの日々の行儀を見聞するうち、とくに日朗の行儀に感銘し、家は代々浄土宗であったが、聖人佐渡赦免の後になって日朗に帰伏した。
後年更に日朗の弟子となり、自邸を投じて寺となし、父行の名をとって山号を行山、自身の名をとって寺号を光則寺と称したと伝えている。
円明日澄(-一五一〇)の『日蓮聖人註画讃』にも法名を西信としているが、最信が正しいであろう。
光則をもってその名とするのは安院日講(一六二六-九八)が貞享四年(一六八七)から筆を起した『録内啓蒙』に『鎌倉志』を引いたのが初見である。
光則寺の縁起によると、宿屋入道の入信、造寺の経緯は『本化別頭仏祖統紀』と大体同じであるが、ただ入道最信の子光則が自宅を寺にし、父の名によって行山、自身の名をとって光則寺とした、という点が異っている。
本化別頭仏祖統紀』には、宿屋入道の名を光則、寺伝では行とある。
光則寺が埼玉県比企郡から入手した系図には

 行(左衛門尉・奉行職三十有余年・永仁元年四月六日寂去・弘安五年十一月罷職・遁世・入道号西信)―光則(二郎左衛門尉・永仁五年奉行職・正中二年入道)

となっている。
この系図がどれだけ信頼できるものであるかは疑問であるが、これによれば、宿屋入道は永仁元年(一二九三)聖人滅後一一年にして寂しており、光則はこれより三二年後の正中二年(一三二五)に没したことになる。
宿屋最信の記を最後に、得宗被官としての宿屋氏の動向について、これ以後を窺うに足る確実な史料は見出せない。
『新編武蔵風土記稿』入郡の条には、光則の子行岩、行岩の子惟直まで、親王(将軍)に奉仕し、行惟の子重顕から将軍尊氏に仕え、義詮、義満に及び、重から小田原北条氏に仕えたとしている。
《川添昭二「日蓮と武士との関係」『日本仏教』八、『遺文辞典』歴史篇「宿屋左衛門入道」の項、『日蓮辞典』「宿屋入道」の項、『昭和新修』別巻「宿谷光則」の項

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