叡尊
叡尊
えいそん
(一二〇一-九〇)
字は思円、興正菩薩と諡号。
大和の人、建暦元年(一二一一)醍醐の僧房に入り叡賢を師とし、建保五年(一二一七)円明について剃髪、高野山、醍醐寺等において密教の奥旨を究めた。
この間、戒律復興を志し、東大寺において覚盛らについて律鈔をたずね、嘉禎二年(一二三六)覚盛らと共に同寺大仏殿で自誓受戒し、律宗の興行をとげた。
これより先、嘉禎元年一時西大寺に住し、その後海竜寺に移ったが、暦仁元年(一二三八)再び西大寺に還住した。
時に同寺の荒廃その極に達し、この再興を発願、宝治元年(一二四七)僧堂、建長元年(一二四九)仏殿を建立した。
亀山上皇を始め朝野の帰依厚く、弘長二年(一二六二)北条時頼に招請され鎌倉に赴き、これより関東に律の宗風大いに起った。
文永元年(一二六四)蒙古襲来の風聞により、天王寺に百座の仁王会を営み、同五年蒙古の牒状が送付されて以来、弘安四年(一二八一)に至るまで、天王寺、伊勢大神宮、石清水八幡等でしばしば異国退散の修法を行った。
弘安七年天王寺別当に補せられた。
しかし叡尊の目的は権門貴顕に交わることではなく、戒律による社会の下層民の救済にあった。
ことに非人救済と殺生禁断の二つの社会事業に特色がある。
その生国大和を始め、畿内諸国の非人に施しをすると共に戒を授け、また仁治年間(一二四〇-四二)より諸国の非人の宿に文殊菩薩の像を安置した。
殺生禁断については寛元の頃(一二四三-四六)より諸国の地頭領主を勧化し、法令を発して禁ぜしめ、特に宇治河においては、宇治橋を架橋すると共に宇治河網代制禁の院宣を下され、これに従っていた漁民には曝布をもってその業とさせた。
生涯に戒を授けた者九万人、また殺生を禁じ漁猟を止め放生した所、一三七〇ヵ所に及ぶとされている。
叡尊と日蓮宗との間には直接的交渉はないが、日蓮聖人の鎌倉弘経の前に立ちはだかった律宗盛行の基を開いたのは叡尊であり、幕府要路と結び聖人の弾圧に動いたのは、その高弟良観房忍性であった。
その自叙伝として『感身学生記』、紀行文として『関東住還記』等がある。
《『日本仏教人名辞典』「叡尊」の項、『岩波仏教辞典』「叡尊(睿尊)」の項》