北条弥源太
北条弥源太
ほうじょうやげんた
(-一二六八・七八-)
日蓮聖人より十一通書状を送られた一人であり、その中に「殊に貴殿は相模守殿の同姓なり、根本滅するにおいては枝葉豈に栄んや」(定四三〇頁)とあり、これより弥源太は幕府内部かそれに近い何らかの影響を与える人物と思われる。
『本化別頭仏祖統紀』によると北条相模守時房の子で北条弥源太掃部助時盛と呼び、生れつき病身であったため養生をしているときが多かった。
掃部助時盛については『本化聖典大辞林』に六波羅南方の探題を一九年務めて掃部助に任ぜられ、出家して法名を勝山と号し、建治三年(一二七七)に八一歳で没したとあるが、弘安元年(一二七八)に「弥源太入道殿御消息」(定一五四八頁)が送られていることより疑問の点がある。
『本化別頭仏祖統紀』によると生来、才能に恵まれており、比企大学、工藤左近、荏原義宗、四条頼基らと親交があり、建長寺大覚禅師とも親交を結んでいた。
しかし工藤吉隆らが聖人に帰依したことに影響され、弥源太も禅を捨て権実の教えを理解し、聖人の外護者として有能な弟子の一人となる。
『本化別頭仏祖統紀』によると出家名を蓮盛と呼び、老後は駿河(静岡県)に隠居して余生を送ったという。
《『遺文辞典』歴史篇「いやげんた入道・弥源太入道(やげんたにゅうどう)」の項、『日蓮辞典』「弥源太」の項、『昭和新修』別巻「弥源太入道」の項》