工藤吉隆
工藤吉隆
くどうよしたか
(一二三三-六四)
平氏。
俗名左近丞吉隆。
父は小四郎行光。
房州天津の領主。
建長八年(一二五六)鎌倉において日蓮聖人の説法を聴き、朋友の、荏原義宗、池上宗仲、四条頼基、進士善春らと共に、念仏を捨てて聖人に帰した。
弘長元年(一二六一)五月、聖人伊豆伊東に配流せられるや、度々これを訪い、供養のまことをつくした。
聖人は『四恩抄』を作ってこれに謝したという。
文永元年(一二六四)一〇月、聖人は父の墓に詣で、母を訪ねんとして房州小湊に帰省されたが、母は大病で息を引きとられたところであった。
聖人は仏天に母の蘇生を熱祷されたため、不思議に息を吹きかえされて、更に四年の寿命をのばされた。
やがて、一一月一一日、天津の領主、工藤吉隆の請によって、その館におもむく途中、東条の小松原において、かねて聖人に害意を懐いていた念仏者東条景信と、その手勢数百人の襲撃を受け、聖人は頭部に三寸の傷を負われ、弟子の鏡忍房は討死、他の二人は重傷を負った。
急を聞いて駆けつけた工藤吉隆も奮戦したが、衆寡敵せず、終に戦死した。
聖人は文字通り、身命を捨て、法華経の行者を守った吉隆を憐れみ、特に、僧の礼をもって諡を贈り、妙隆院日玉と呼んだ。
法孫の日澄は工藤家の香華寺である真言寺の寺主と法義を論じ、寺主は屈して改衣して寺を与えたので日澄寺と改めたが、日澄は聖人の身代りとなって法に殉じた吉隆、即ち日玉を開祖と仰ぎ、自らは第二世となった。
なお、吉隆は存生の時から、懐妊中の妻女の生まれる子が男子ならば、聖人の弟子とせられんことを願っていたので、妻女は夫の殉教後生まれた男の子を聖人に託した。
小松原鏡忍寺第三世日隆がこれである。
日隆は、父吉隆日玉殉教の地に寺を造り、父と共に聖人を護って殉教した鏡忍房日暁を開山とし、父、日玉を二祖とし、自らは第三世となった。
『本化別頭仏祖統紀』は、日玉の小松原における法功は、比企、富木、池上、波木井の諸大檀越の護法よりも大きいと記す。
《『遺文辞典』歴史篇「工藤左近尉」の項、『昭和新修』別巻「工藤左近吉隆」の項、『日蓮聖人事蹟事典』(雄山閣)「千葉」の項、『国史大辞典』四巻「鏡忍寺」の項・六巻「小松原法難」の項》