小松原法難
小松原法難
こまつばらほうなん
文永元年(一二六四)一一月一一日の夕刻、日蓮聖人および弟子信者一〇余名が安房国東条の郷松原大路(千葉県鴨川市広場付近)において東条景信らの襲撃を受けた難をいい、東条法難ともいう。
弘長三年(一二六三)二月、伊豆流罪を赦免されて鎌倉に帰った聖人は、翌文永元年、安房へ帰郷された。
『可延定業御書』に「日蓮悲母(はは)をいのりて候ひしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」(定八六二頁)とあることから、悲母の病を見舞われたものと考えられている。
悲母の回復を祈り小康を得たため、一〇月、華房蓮華寺に赴き旧師道善房に面談し、一一月一一日、天津の工藤吉隆の招きに応ずる途上松原大路において、地頭で念仏者の東条景信の襲撃を受けた。
東条景信にとって聖人は、領家に方人して地頭の権力の前に立ちはだかる敵対者であると同時に、浄土教を批判し宗教生活の根本を非議する極悪人であった。
景信の聖人に対する憎しみは強く、聖人の帰郷を機に迫害を加えんとしたものである。
松原は東条郷の一画にあり、当然ながら地頭東条景信の支配下にあった。
聖人一行の動静は十分探知しての襲撃であったと思われる。
一〇余名の聖人の一行の中でも応戦できるものは三、四人であった。
降る雨のように矢を射かけられ、電光のように太刀を斬りつけられるなかで、弟子一人が殉死し、二人が重傷を負い、聖人自身も頭に疵を受け、左の手をうち折られたが、命を落すことなく危機を脱した。
この事件について、約一ヵ月後、南条兵衛七郎に送った消息に「今年も十一月十一日、安房国東條の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要にあふものはわづかに三四人也。
いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。
弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。
自身もきられ、打たれ、結句にて候し程に、いかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり。
いよいよ法華経こそ信心まさり候へ」(定三二六-七頁)と、当時のありさまを具体的に叙述されている。
殉死した弟子とは鏡忍房、工藤吉隆、重傷を負った二人は乗観房・長英房と伝え、後に受難の地に鏡忍寺が建立された。
聖人は身延入山後、多難な弘教活動を振り返り「文永元年甲子十一月十一日頭にきず(疵)をかほり左の手を打ちをらる」(『聖人御難事』定一六七三頁)と述懐されている。
聖人は天津に逃れ、翌年、鎌倉に帰られた。
建長五年(一二五三)の信仰告白以来、清澄寺の追放、更に文応元年(一二六〇)の『立正安国論』の上申を経て松葉谷草庵の焼打、伊豆流罪、今回の東条景信の襲撃、と聖人に対する迫害の連続は聖人をして法華経の行者の意識を高揚させていった。
経文と自己の宗教体験との符合は法華経所説の受持者の確信を促すものであった。
従来の「法華経の持者」「法華経の行者」の呼称から、東条法難を通して「日本第一の法華経の行者」と表明し、自己を法華経の中に規定された聖人は、文永二年の終りころ再び安房に帰られたが、景信の襲撃によって殉死した弟子を悼んでのことと推測される。
翌三年正月六日には清澄寺で『法華題目抄』が著されており、恐らくこの頃、景信および清澄寺の円智房らは死去していたものと思われる。
《『日蓮聖人大事典』(国書刊行会)「日蓮聖人の生涯」「日蓮聖人と法難」の項、『日蓮聖人事蹟事典』「千葉」の項、『日蓮辞典』『国史大辞典』六巻「小松原法難」の項》