頼基陳状
頼基陳状
よりもとちんじょう
(二四九)真蹟不現存。
日興写本二種、重須本門寺蔵。
一は「弘安元年四月五日」写の未再治本。
二は「正和五年閏一〇月二〇日駿河国富士上方重須談所ニテ以再治本書写之 白蓮七十一才」の再治本。
未再治本では「竜象問答抄」と呼び、再治本では「三位房竜象房問答記」と呼ぶ。
日蓮聖人、建治三年(一二七七)六月二五日、五六歳の撰。
建治三年の春、比叡山の学僧竜象房なる者が鎌倉に下向し、極楽寺良観と結託してのち、大仏の門の西の桑ケ谷に止住して日夜説法していた。
三位房はこれと法論して仏法の邪正を糺す決意をして、六月九日桑ケ谷に趣く途中、四条金吾の館に立寄り、同行を勧めた。
金吾は公務のため同行できなかったが、遅れて現場に行きつくと、説法終り、例の如く質疑応答に入って「此見聞満座の御中に御不審の法門あらば仰せらるべし」ということであったので、三位房が立って両人の法論が始まり、やがて竜象房は「口を閉て色を変候」。
勝者の三位房に聴衆は「今暫く御法門候へかし」と追いすがったが「やがて帰り給ひ了ぬ」。
この事が金吾の主君江馬光時の耳に入り、激怒した主君は二三日付の下文を二五日、島田左衛門入道・山城民部入道の両人が使者として金吾の許に持参した。
下文は法華経と日蓮房とを捨てるという起請文を差出せ、さもなくば二ヵ所の所領を没収するというものであった(『四条金吾殿御返事』定一三六二頁以下)。
これは良観・龍象の策動によるものであり、また日頃、金吾を憎む同僚らの讒言の結果でもあったろう。
金吾は早速、下文と事の次第と不退転の決意とを認めて、即日身延に急報した。
「二十七日の酉の時に来て候」(定一三六一頁)とある。
聖人は金吾の覚悟に感嘆すると共に、万一を慮って江馬氏への陳状(本書)を金吾に代って代作し、これを三位房に届けさせる予定であったが、三位房所労のため、別の弟子に持参させた。
またこれを比企大学三郎か滝の太郎か富木常忍かに浄書してもらい、その上で上呈させよともいう。
しかし「これはあげ(上呈)なば事きれなむ。
いたういそがずとも内々うちをしたため、又ほかのかつばら(彼奴原)にもあまねくさはがせて、さしいだしたらば、若しや此文かまくら内にもひろう(披露)し、上へもまいる事もあるらん。
わざはひの幸はこれなり」(定一三六三頁)とて、その上呈については満を持して待機せしめた。
そして『四条金吾殿御返事』の末文に「今度いかなる便も出来せば、したため候し陳状を上げらるべし」(定一三八五頁)とある故、まだこの時も陳状は提出されず、やがて九月の『崇峻天皇御書』によれば、江馬氏は悪疫の流行にかかり、謹慎中の金吾を召出して治療してもらうに至る故、遂に陳状は提出されず仕舞に終った模様である。
さて本書は江馬入道からの詰問数条に対し、逐状答弁する形式になっている。
一、現場を目撃した者が異口同音に申し立てるところによれば、汝は兵杖を携えた徒党を引連れて説法の席に来たというが、不穏便である――これ誰人かの虚言なり、召会わせて実否を糺明せられよ。
以下、両人のその日の法論の内容を叙し、その間に真言・法相・華厳・三論・浄土・禅等の諸宗の教義を批判し、龍象房が敗れ去った顛末を記し「法華経を信じ参らせて仏道を願ひ候はん者の、争か法門の時、悪行を企て、悪口を宗とし候べき」と弁明する。
二、極楽寺の長老良観房忍性上人は世尊の再来と仰がれている。
その上人を非難するとは不都合である――良観房は祈雨の法を修したが、七日を経ても雨降らず、約束通り日蓮聖人の弟子となるべきに、かえって遺恨を抱き、讒言を構えて「久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師」たる聖人を幕府に訴え、死罪・流罪にあわせたが、それは二百五十戒を持ち、不殺生戒を守る僧侶としては自語相違である、とて江馬氏の良観に対する認識不足を誡める。
三、竜象房・極楽寺良観に見参した人は、釈尊よ弥陀よと尊信しているものを、非難攻撃するとはけしからぬ――竜象房は洛中では人肉を朝夕の食事としていたことが露顕し、山門の衆徒から誅罰されようとして逃亡し、鎌倉に流れてきてもまた人肉を食い、人々を恐怖せしめている。
かかる人を仏菩薩と仰ぎ給う主君の誤りを、臣下として諫めねばならぬと。
四、是非善悪に拘らず、主・親には従うのが仏神の道にも叶い、世間の礼である――『孝経』やその註釈、伝教大師の『守護章』中巻等の文を挙げて、諫臣争子こそがかえって忠臣孝子であり、主君の信仰の誤りを見て諫めもせず、詐り親しむのは主君にとって怨敵であると説き、耆婆大臣一人が阿闍世王を諫めた例を挙げる。
念仏信仰の誤りを指摘して誤信を諫め、世間の道においては我等親子二代にわたって身命を賭して主家に忠誠を尽くした事実を回顧し「後生までも随従しまいらせて、頼基成仏し候はば君をもすくひまいらせ、君成仏しましまさば頼基もたすけられまいらせむとこそ存じ候へ」とて、日蓮聖人に従って法華経を信仰しているのであると。
最後に良観が持っている小乗戒は叡山の大戒壇の建立と共に既に捨てられ終った小法であると断じ、これらの小法を信じて、法華経と日蓮聖人とを捨てる起請文を書くことは出来ぬと明言し、讒言の者との対決を重ねて要求して一篇を終る。
《『日蓮聖人御遺文講義』一〇、『遺文辞典』歴史篇「頼基陳状」の項、『日蓮辞典』「頼基陳状」の項》
【補記】なお、「日興写本二種」とされてきたが近時の研究で一本(未再治本)の筆者は日澄と指摘されている。(『図録日蓮聖人の世界』一〇五頁)