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日順(三位房)

にちじゅん #3193

日順(三位房)

にちじゅん

(一二九四-一三五四)
三位阿闍梨(さんみあじやり)、三位房と号す。
永仁二年甲州下山に生まれ、七歳の寂仙房日澄の弟子となる。
日澄は初め身延日向の弟子であったが、永仁年中(一二九三-三九)日向と意見を異にし、四一歳の時弟子の日順を連れ身延を去って富士日興の門に投じた。
日澄は広学博識の学僧で、日興によって重須談所初代の学頭に抜擢されたが、延慶三年(一三一〇)四九歳で没した。
日順は一七歳の日澄の寂にあい、以後日興に師して勉学し、叡山へも負笈している。
文保元年(一三一七)頃日澄のあとを継いで重須第二世の学頭に就き、日興門下の教化に携わったが、嘉暦二年(一三二七)には日興に代って上洛し、奏を行っている。
同三年『五人所破抄』の草庵を成すと伝えられる。
同四年佐渡に本照寺を創建する。
この頃から眼を患い、重須を出て大沢に隠棲した。
しかし、師日興の思想を受けてその正当を著述することに励んだ。
三九歳の日興の遷化にあい、師の遺告によってその後も重須の学徒の育英に努め、かたわら日興学を盛んに祖述してこれを宣布し、他門流と対決している。
建武三年(一三三六)には『日順阿闍梨血脈譜』を著して、興門教学の正当を論じ、翌四年『用心抄』をもって本尊相承の用心を示し、延元元年(四三歳)にはついに両眼を失明したが、その後も精力的に著述に励み、失明後の貞和五年(一三四九)の『本門心底抄』では上行応化の日蓮付属の題目と、事の戒壇建立の論を力説している。
正平九年大沢の草庵にて化寂す。
世寿六一歳。
興門初期の宗学者で今日の特異な富士学の基礎を作ったとみられる。
上述以外の著書に『本因妙口決』『摧邪立正抄』『念真所破抄』『従開山伝日順法門』等あり、以上の諸書は『宗全』二巻「興尊全集興門集」に収められている。
なお『五人所破抄』は日順の草案でなく、西山日代の作で、これは日代の嗣法の弟子日任の記すところ、広蔵日辰もまた日代の作としている。
執行海秀『日蓮宗教学史』、宮崎英修「興門初期の分裂と方便品読不読論五人所破抄の著者について-」『大崎学報』一二二号、『遺文辞典』歴史篇「三位房」の項、『日興門流上代典』「日順(三位阿闍梨)」の項

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