方便品読不読論
方便品読不読論
ほうべんぽんどくふどくろん
建武元年(一三三四)正月七日、駿州(静岡県)富士郷大石寺日仙房(上蓮房)において、六老白蓮阿闍梨日興(一二四六-一三三三)の弟子である本六の一人摂津阿闍梨日仙(一二四四-一三三六)と、新六の一人蔵人阿闍梨日代(一二九四-一三九四)の間に方便品読不読の論が争われた。
この問答の記録には佐渡阿闍梨日満の『方便品読不之問答記録』(『宗全』二巻三九四-五頁)と、薩摩阿闍梨日叡の『日仙日代問答』(前掲書、四四五頁)がある。
日満の記録によれば、日仙は迹門無得道の故に方便品は読むべからず、といい、日代は読むべし、迹門に得脱有無を論ずるには与奪破の三義がある、与釈においては一応の得益を許すも真の得益は寿量品にある、この相伝によって高開両祖(日蓮聖人・日興)の如くに方便品を読むべきである、と責めると日仙は閉口したといい、日叡の記録によれば、重須の蔵人阿闍梨日代・大輔阿闍梨日善・大進阿闍梨日助その他の大衆と大石寺に居合わせた人々、並びに伊賀阿闍梨・下之坊同宿の宮内卿阿闍梨他十余人が集合した。
時に日仙は迹門無得道の故に読むべからずといい、日代は鎌倉方の如く迹門有得道を主張したという。
日叡は日仙の主張を天目・日弁の僻釈に等しいと批判しているが、当日の問答は日仙の勝となり、日代は日蓮聖人・日興の義に背いた本迹迷乱の説であるというので重須の大衆一同の義をもって日代を擯出したという。
この両説は全く相反するので勝敗の真相は明白でないが、この記録によって讃岐の法脈は天目の阿流といわれ、日代は重須を追われたことがわかる。
この論争は富士門徒の教学を大きく動揺させた。
かかる説は日興在世当時は意識されていなかったが、日興入寂と共にこの義が上提され解釈を要求されて種々の説が立てられるようになったのである。
当時日道は日尊へ与えた書状の中で「日興上人御跡の人々面々に法門立違へ候。
或は天目に同じ方便品を読誦せず、或は鎌倉方に同じて迹門得道の旨立て申候、唯日道一人正義を立つる間、強敵充満候」(前掲書、二六二頁)と誇っているが、富士門流の当時一般情勢としては迹門無得道を主張しようとするも、日仙の如く方便品不読とすれば高開両祖の先例に違うこととなるのでその会通に苦しみ、日順は所破のため文借(文証)のために、日善・日代ら河合の人々は所破のため、内証実義は即本而迹の故に読むべしと立てたといい(この点『日満記』と少し違う)、上野の日道・重須の日妙らは所破のために読み、読んでこれを捨てるのである、といずれも児戯に類する珍妙な苦しい会通を行った。
日尊はこれらの諸会通を評して題目五字は迹本観の三法妙の当体であって方便品を所破のために読むというのは深義を知らぬからであるといい、即本而迹、即迹而本、二而不而の法であるからとて一部読誦を認めているが(前掲書、四一六頁)、これらによって興門諸師の教学の対立情況がうかがわれ、これが重須における日代と日妙の継承問題にからんで日代は西山に去るに至るのである。
《『日蓮教団全史』上》