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尊門

ぞんもん #1864

尊門

ぞんもん

白蓮阿闍梨日興の弟子に当る久成房日尊(一二六五-一三四五)の法脈のこと。
尊門流。
日尊は奥州登米郡玉野(現・宮城県玉野市)の生れと伝え、初め台を学び、弘安六年(一二八三)一九歳のとき日目の教化にあって改衣し、日興に師
日尊は正慶二年(一三三三)日興入滅の後、法弟の日郷と友に日目の奏に従ったが、中途にして日目の遷化にあい、日郷を随えてその任を果したという。
日郷は富士に帰り、日尊は関西方面への弘通に当り、暦応元年(一三三八)再び入洛し、翌二年に六角油小路に上行院を創す。
康永四年(一三四五)八一歳をもって入寂。
日尊の門下には日(尹)・日慧・日大・日堯・日禅・日従の六人があり、上行院は日・日円・日従と次第し、日大には譲られなかった。
日大はこれを不満としたためか、自己の建立した冷泉西洞院の法華堂、本辻法華堂(上行院)を中心に活動し、貞和二年(一三四六)には一条猪熊に上行院を建立して本拠とした。一条猪熊の上行院は日大の弟子日源によって本実成寺と改められ、更に二条堀川に移って住本寺と称した。
かくて日尊門下は上行院と住本寺の二流に分立する。
その後、二ヵ寺は和睦を結んだが、寿量品の「心懐恋慕」「咸皆懐恋慕」の「懐」の字の読法について諍いを続け、上行院を「エ」門徒、住本寺を「クワイ」門徒と呼んだと伝える。
文五年(一五三六)の法難によって両寺は破却に遭い、広蔵院日辰は両寺統合を提議して、文一九年(一五五〇)五条門堀川に要法寺を建立す。
この門流は明治七年(一八七四)興門派に帰属し、同三二年興門派本門宗と改称。
昭和一六年(一九四一)本門宗と日蓮宗顕本法華宗の三宗合同したが、昭和二五年に離脱して単立となり、要法寺を本山として日蓮本宗と公称し、現在に至る。
立正大学日蓮教学研究所編『日蓮団全史』上》

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