日尊(大夫阿闍梨)
日尊(大夫阿闍梨)
にちぞん
(一二六五-一三四五)
京都要法寺・会津実成寺・比企谷実成寺開山。
久成院のち上行院と号す。
大夫阿闍梨、大夫房ともいう。
奥州(宮城県)登米郡玉野の人、文永二年に生れ、初め天台を学んだ。
弘安六年(一二八三)一九歳のとき蓮蔵房日目(一二六〇―一三三三)にあって改衣し、翌年には師に随って身延山に登り白蓮阿闍梨日興(一二四六―一三三三)に直参し行学に励んだ。
日辰の祖師伝によると「日興説法の時、深秋を値ふ。堂を去つて戍亥に往くこと十五丈許り梨樹あり、秋風の為に吹かれて其葉乱落す、日尊これを視たまふ、日興之を呵責して曰く、汝早く座を起つべし」と勘当されたという。
後年日目が日代に送った書状には「其後、大夫殿(日尊)御不審ゆり候てのち」とあるので、梨葉乱落に注意をうばわれたために勘当になったかどうかは明らかでないにしても、日興より勘当されたことは事実である。
日尊は日興の不興を受けて大いに発奮し、『尊師実録』に「其の後弘通東西南北其の極り無し云云、西は安芸国に限り東は外の浜に至ると云云、道俗貴賤の数を知らずと云云」とあるように、北は自身の生地玉野を根拠として日目化導のあとを受けて教化を布き、西は安芸(広島県)、出雲(島根県)に至る間を往返遊化し建立寺院三六ヵ所に及んだという。
もっとも『祖師伝』によれば出雲・丹波(京都)に一ヵ寺ずつ、伊豆(静岡県)に六ヵ寺、下野(栃木)に二ヵ寺、奥州(宮城県)に二ヵ寺の一二ヵ寺しかあげていない。
堀日亨師の調査によれば日尊一期の建立寺院は明らかに後世師を仰いで開山に推したものを加えても駿河(静岡)一ヵ寺、伊豆(静岡)一ヵ寺、武蔵(東京)一ヵ寺、下総(千葉)一ヵ寺、下野(栃木)一ヵ寺、岩代(福島)六ヵ寺、陸前(宮城)一ヵ寺、羽前(山形)二ヵ寺、美濃(岐阜)一ヵ寺、山城(滋賀)二ヵ寺、丹後(京都)一ヵ寺、出雲(島根)八ヵ寺、石見(島根)一ヵ寺の二七ヵ寺にしかならないと伝わる。
三六ヵ寺というのは日尊の行跡を非凡であるのを後人が讃嘆の余り誇称したのであろうが、実数はともかくとして、その盛んな化蹟は驚嘆すべきものがある。
勘当の期間は一二年といい、応長元年(一三一一)に赦免されたと伝え、その後さらに教線を伸ばしたが、日興滅後、日目に随い日郷と共に天奏上洛の任についてが、中途にして日目の遷化にあい、日郷を随えて天奏の役を果し、日郷は富士に帰り日尊は関西の遊化にあたり、暦応元年(一三三八)再び入洛、翌二年六角油小路に上行院を建ててここに住した。
当時日尊には六人の高弟があった。
康永三年(一三四四)日尊八〇歳の時の譲状によれば、日印・日慧・日大・日堯・日禅・日従の六人があげられている。
日尊は康永三年六月八日日印に上行院を譲り、翌康永四年五月八日八一歳をもって入寂した。
日尊門下(尊門)は後に二流になったが、これは六角上行院を継承しなかったことを日大が不満としたことに始まる。
日大は木辻法華堂を始め、猪熊その他を上行院と号しているが、これは自身をもって上行院の正嫡であると任じたためであろう。
『伝燈抄』は日印の時、住本寺開山日大が寿量品の心懐恋慕、咸皆懐恋慕の懐の字の読法につき「エ」「クワイ」の争いをして上行院と門徒を引分け、日尊門下は二流になったことを伝えて、上行院は「エ」門徒、住本寺は「クワイ」門徒と呼んだという。
いずれにせよ、日大は六角上行院の後継者に対し好意を懐かず門家を分かつに至ったのであろう。
《『日蓮教団全史』上、『宗全』二巻、『富要』宗史部、堀日亨『富士日興上人詳伝』、宮崎英修『日蓮宗の人びと』、『遺文辞典』歴史篇「日尊」の項、『日本仏教人名辞典』「日尊」の項、『日興門流上代事典』「日尊(玉野大夫阿闍梨)」の項》