五人所破抄見聞
五人所破抄見聞
ごにんしょはしょうけんもん
本書は『五人所破抄』の註釈書で妙蓮寺三世日眼(-一三八四)の著作と伝えられている。
これは本書題号下に「釈 日眼述」とあり、写本奥書に「伝写本云、康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼判」とあるのでこの日眼を妙蓮寺日眼と推定したものであろう。
しかしこれには不審がある。
まずこの年号の康暦二庚申年という記年法は鎌倉時代より室町時代にかけては見られないもので、直ちに時代的通格の批判対象となる。
このように年号・年数・干支・年月日という書き方は戦国時代に入ってまれに見られ、徳川時代に入って定着する記年形式で、室町以前ならば「康暦二年庚申六月四日」と書いてなければならない。
従って奥書の年号は戦国時代から徳川初期にかけ書写された「伝写本」に付加された年記であろう。
また本書の中ごろの「日興奏公家訴武家」の条に「総じて公家伝奏と云て当御代は勧修寺殿・広橋殿など伝奏衆を云ふ也」とあるが勧修寺家が武家伝奏に初めて任ぜられたのは文明二年(一四七〇)、広橋家は応仁元年(一四六七)で両家が共に並んで伝奏を務めたのは文明二年から同一一年までの九年間、日眼の寂後八七年も後世のことである。
本書には勧修寺・広橋両伝奏があたかも世間周知の役柄のようにしるされているが、このような状態になるのは永正六年(一五〇九)以降に両伝奏が引続いて務めるようになってからのことで、日眼滅後一二〇余年後のことである。
いまかりに最も早い文明年間の成立と見れば西山本門寺八世日眼(-一四八六)がふさわしいと考えられる。
本書に二箇相承の存在を示す記事、両巻血脈によって成立する種本脱迹、宗祖本仏論が見えるが、このころ富士門流に論ぜられているものであるから時代的にも首肯できる。
《宮崎英修「妙蓮寺日眼著・五人所破抄見聞の価値」『棲神』四一号、『日興門流上代事典』「五人所破抄見聞」の項》