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二箇相承

にこそうじょう #408

二箇相承

にこそうじょう

日興門流において伝承される「身延相承」「池上相承」が、日蓮聖人入滅にあたって白蓮日興に一切を付嘱された重要な証拠であるとするところから、これを二箇相承という。
『宗全』二巻、堀日亨編『新編日蓮大聖人御書全集』所収。
日興門流の伝承では「にこそうじょう」と称するもののようで、同門流では両巻血脈と合わせてきわめて重視されている。
しかし、その日蓮聖人の真筆は存在することなく、相承の系譜も明確でないのであって、おそらく日蓮聖人滅後一五〇年のころ、富士門流関係者が自門の正統を証明しようとして謀作した偽書とされる。
現行の創価学会編『日蓮大聖人御遺文』、『日蓮宗宗学全書』によると、「身延相承」は弘安五年九月 日、日蓮聖人が聖人一期の弘法をあげて、白蓮阿闍梨日興一人に授与することを述べ、やがて富士山本門寺に戒壇を建立することを託したもので、日蓮門下における特別の付嘱がなされ、聖人より日興に血脈を許したものとしている。
池上相承」は同じく弘安五年一〇月一三日、聖人が白蓮阿闍梨日興に身延山久遠寺別当の付嘱をあたえたものとされる。
この両相承の伝承については問題が多すぎる。
まず大石寺四代日道の『三師伝』(『宗全』二巻、『富要』五巻)にも伝えず、日興門流初期の古記録にも見えない。
その由を日興門流では、両記録が重須本門寺に格護されていたところ、西山本門寺一三世日春が両記録は日興より日代に付嘱されたものであるとして武力によって押収した。
その後、正九年(一五八一)の動乱によって西山本門寺の重宝と共に紛失したのであるという。
しかし、この動乱以前に要法寺日辰(一五〇八-七六)が二箇相承を臨写し、重須本門寺九代の日出にも写本があるといわれる。
更にこれより以前、大石寺日有(一四〇九-八二)に帰したことのある顕応日(一四二八-八九)の『百五十箇条』の第一一条に「日蓮一期弘法」の譲状を記しているから、少なくとも聖人滅後二〇〇年以前に二箇相承の原本に匹敵するものが成立していたと想定される。
と同にこの日と同時代の越後本成寺の日現(一四五九-一五一六)が『五人所破抄斥』に両相承は全く聖人の御正筆でもない偽著謀判であり、日興の手跡でもなく、蔵人阿闍梨日代の筆跡に似ていると聞きおよんでいるとしている(『宗全』七巻一八二頁)。
さて、「身延相承」には二本があって、一本の最後には「血脈次第日蓮日興」とあり、また他の一本即ち慶長三年、保田妙本寺第一五世日侃(一五二六-一六〇一)が本因坊日治に相伝した文書中に見えるものにはその下に更に「甲斐国波木井郷於山中図之」が加えられている。
なお、後者についていえば、古い興門所伝にはその文をそのまま伝えているのに、現行の大石寺関係では皆削除している。
このように重要な相承と言いながら、さまざまな問題をかかえているが、左京阿闍梨日(一四二八-八九)の『六人立義破立抄私記』では、今日の「身延相承」と「池上相承」と文章が入れ替っており、九月一三日が身延山久遠寺別当の付嘱、一〇月一三日が嫡々の付法となっている。
現行では九月が身延での嫡法付属、一〇月が池上での身延山別当付嘱になっているから、全く逆になっているわけである。
このようにして「二箇相承」は、室町期に各門流で行われた三箇の重宝等による正統の証明などと同様な意味で謀作されたものと考えられている。
富士門流では日興唯授一人を主張するが、これは日蓮聖人入滅直前の弘安五年(一二八二)一〇月八日に制定された本弟子六人の「定」と明らかに矛盾するものである。
この「定」(『宗全』二巻「宗祖御遷化記録」)は日蓮聖人が定められたのを、日興が執筆し、本弟子と定められた六人がそれぞれ帯持するようにとの指示がなされている。
本弟子六人は入門の浅いものから順次に日持・日頂・日向・日興・日朗・日昭と列ねているが「不次第」であるとしている。
二箇相承は九月に日興への唯授一人の付法がなされたとするが、正本の臨写本がある「宗祖御遷化記録」の「定」と矛盾していることはあまりにも明白である。
更に日蓮聖人御入棺が長老日昭・日朗の二人によって行われたこと、御葬送次第も日昭・日朗を中心に進められたことは「宗祖御遷化記録」に日興が自ら認めたことである。
以上の通り、二箇相承は日蓮聖人入滅後、諸門流分立のなかで日興門流の正統を主張する目的で作成された後世の偽書であることが明らかである。
《『日蓮辞典』「二箇相承」の項、執行海秀『日蓮宗教学史』、日蓮宗宗務院編『創価学会批判』》

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