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宗務院

しゅうむいん #1708

宗務院

しゅうむいん

日蓮宗宗務院」のことで、所定の組織機構のもとに宗務を執行する務所である。
明治初年の混沌たる政情の中で、政府は明治五年(一八七二)三月一四日宗教行政の管理上、教部省を設置(一〇年八月廃止)して社寺に関する項をことごとく扱った。 四月二五日従来の僧位僧官を撤廃し、教導職一四級の制を布き神官僧侶をこれに任命し、その布教機関として大中小の各院が設けられた。 四月二八日則三条を定め、五月三〇日大院を設置した。 この神合併の大院は最初麹町紀州屋敷内に設けられ、各宗の宗務局もまたここに付属して置かれ宗務を取扱った。 日蓮宗宗務局もその標札を同屋敷坂下の矮屋(わいおく)に掲げた。 それ以前は麻布法典寺にあったことが伝えられ(明治教史上における新居日薩)これが「宗務院」の濫觴である。 その後紀州屋敷の大院は増上寺に移され、日蓮宗宗務局も芝山内の乾賀寮(懸河寮)に位置した。
明治七年各派に管長一人が置かれて新居日薩が初代管長になったが、翌八年合同の「大院」は解散したので芝二本榎に本宗独自の大院を置き、その中に「宗務局」を設けた。 次いで同一七年教導職が廃止され管長の職務権限も拡大(住職の任免、教師の等級の進退等)したので、学制改革と併せて大教院を改めて「大檀林」となし宗務局を改めてここに初めて「宗務院」と名称した。
育と行政の場の区別は明治三六年「大檀林」が「大学林」として大崎に移ったことにより一層明確になり「宗務院」は依然として二本榎に、幾多の宗門の歴史を秘めて明治、大正、昭和と六〇余年を経過する。
惜しくも昭和二〇年(一九四五)五月二三日襲で焼夷弾の直撃を受けことごとく灰燼に帰し、二本榎の歴史を閉じた。 なお、焼失後二本榎妙福寺に仮事務所を設けて宗務を執ったが、やがて本院を身延山清兮寺に移し終戦に至った。
戦後は旧顕本法華宗盛泰寺跡の本多日生を始め、旧顕本の関係者が布教伝道に活躍した「統一閣」を借り受け「日蓮宗宗務院」を開設した。 所在地の北清島町は浅草、上野に近く、便利な場所にあったので、昭和二七年、二本榎の旧地を処分し「統一閣」の譲渡をうけた。 大修を行い装いを新たに、一〇月八日日薩師の本尊を奉掲して奉告式(増田日遠総監)が行われた。 統一閣の買収費は土地建物をふくめて三〇〇万円、修費及び調品代をふくめて約三〇〇万円計六〇〇万円を要したことが記録されている。
その後老朽建築物(関東大震災直後、明治末期の劇場を移築)であり、設計的にも不適当であることから改築の要に迫られ、日蓮宗ビル建設委員会が設置されて多面的な検討が加えられたが、資金難その他の由から現地に再建の実現は困難となった。 昭和三九年本門寺貫首(伊藤日定)の了解も得られたので第一五臨時宗会の議を経て、池上の現在地(東京都大田区池上)への移転を決定し、現地(浅草北清島町)処分金をもって新庁舎を建設することになった。 日蓮宗宗務院庁舎建築委員会が設けられ諸般の計画が進捗し、翌四〇年予定通り竣工したので、池上山上の仮庁舎を払い一一月二七日盛大な開庁式が営まれ、爾来この庁舎において宗会などの大会議を含め宗務全般が行われている。
なお北清島町の庁舎及び土地の売却に関し、第一五臨宗会は前所有者である盛泰寺と什師会の理解と協力に対し、感謝状を呈し宗門もまた金一封を贈呈し、貴賓室には本多日生の法勲を賛える画像が掲額されている。
なおこの宗本一体、総監制の第一回参与会(昭和二六年八月三一日)において、宗憲を改正し「本宗の主たる事務所を日蓮宗宗務院といい、これを祖山に、従たる事務所を日蓮宗宗務院東京務所といい、これを東京都に置く」を、昭和二九年の宗本分離に至るまで約二年半実施された。 実際には主たる宗務は北清島町の東京務所で執られていた。 このことを特に付記する由は、宗教法人法附則第五項の規定による宗教法人「日蓮宗」の極めて重要な設立公告が、昭和二六年一一月一日 設立者 山梨県南巨摩郡身延町三五六七番地、宗教法人日蓮宗」主管者増田宣輪で行われていることを解するためである。
なお宗務院の前身ともいうべき宗務局が明治七年、一時的ではあるが、宗教院(教師養成機関)の設置と共に埼玉県根岸妙蔵寺に移ったことがあり、翌八年には大教院の増改築のため二本榎から深川浄心寺に移って宗務が執行された、大教院は翌九年、二本榎の工事が完了して深川から戻っているが、宗務局が二本榎に戻ったのは明治一一年一一月二八日である、第二回の宗規釐正会議(第二次本山会議)はこの年の四月浄心寺で行われている。

宗務院構は宗門体制との関わりの中で更改を重ねた。
明治中期までは、実権者である管長を中心とするものであったが、明治三四年(一九〇一)第一宗会の開設を機として、立憲管長制に応する機構が整備され、務の分担も明確になった。 明治二九年六月二〇日施行の『日蓮宗改正宗規宗則』(五月二八日管長小林日董申請、六月一八日内務大臣板垣退助認可)によると、宗務総理の実権者は管長で監督一人を置き三課を設け課長以下の指揮監督を命じ、管長を輔佐させた。 課長は三人で務、庶務、財務の三課に配置し、録または録補一人ずつと書記若干人を置いて務を分掌させた。 当の「教務課」は檀林、教師の進退、布教及び法要がその担当業務であり「庶務」は任免、賞罰、会議、渉外、諸布達、寺院の財産、創立移転、紛争和解や法籍、檀信徒、文書保管に係る務。 「財務」は経常費の出納、営繕、寺院の財産等級のほか、抹教結社全、外国布教費の歓募、直轄大中檀林の出納、救恤義損等に関する務を行っていた。
務にも代のカラーが感じられるが、役職の任免に特色があった。 ち監督は本山住職中から管長の特命で定めた。 務課長は本山に順位があって順次交替でその任に就き任期一年、庶務課長は末寺住職中大講師以上から管長が特命任期三年、財務課長は末寺乙一等以上の住職中から常置員会が予選した三人の候補者につき管長が特命、任期三年と規定されている。 その後総務部が増えて四部が置かれたが、「宗務院職制」は宗則で定め課長は部長に昇格し、総務部長は宗務総監を充て、三部長制が昭和一二年(一九三七)頃まで続いた。 なお宗務院務章程や服務規律は宗令で別に定められていた。
三派合同の直前は法主管長制となり、更に社会部が増設、五部になっていたが総務部長はやはり宗務総監が兼職し、専任の部長は四人であった。 昭和一六年三派合同後は、管長は総本山・大本山住職中から宗機顧問会の推薦によって就任した。 宗務院機構は総務部の中にあって懲戒事件や紛議事項を扱っていた監正課が独立して監正局となり部長四人のほかに局長一人と三派合同の条件による参与が増員された。 各部局には主(七人‐一二人)、主補、書記若干人が配置されて宗務が行われた。 翌一七年には更に興亜局が増設され戦下に対応する海外布教の指導と援助が行われた。
戦後最初の宗務院機構は、一宗の選挙によって当選した管長の親任する宗務総監のもとに部長三名(教学、庶務、財務)参与二名、主事五名‐七名、書記、臨時詰若干人が宗教法人令下の宗務の運営に当り、また務に従した。 昭和二三年第八宗会を経て四部(教学、庶務、社会、財務)一課(総務)になり、嘱、雇員若干人が増加された。 翌二四年管長が廃止され、宗会が選出する宗務総長が本宗の主管者として宗務内局を組織し役職員を任命して、宗門行政の全般を統した。 次いで昭和二六年第一三宗会宗本一体を目指す当局(肉倉内局)の原案を可決し、宗門の儀表としての法主のもとに総監制が実施されることになった。 宗務院構は図のとうりである。
この宗本一体総監制は、昭和二九年終止符を打ち、再び管長(一宗公選、宗務統埋、代表役員)のもとに、宗務総長(管長親任)五部長(総務、庶務、教化、組織、財務)の制となり、新たに参議三名(宗務顧問が互選した者、法主が推薦した者、霊跡及び由緒寺院の住職のうちから管長が選定した者)を設け、宗教法人法の定める責任役員に充てて管長を補佐、宗務に参画させた。 管長の諮問機関としての宗務顧問会のほか各種(宗制・教学、布教、修法、社会教化事業、宗宝、霊跡由緒寺院、収入調査)審議会が設置された。
昭和三三年第五宗会を経た宗制は大幅に変更されて、管長の宗務に関する行為はすべて院議に基づくことを必要とし、宗務内局が連帯して責任を負うことになった。 内局は宗務総長局長六人と参与二人で組織した。 職員は課長九人、主、主補、書記若干人に、必要により顧問、嘱託、臨詰、雇員が置かれた。 組織部は廃止され、総務部が総務局、庶務部が法務局、化部が教務局財務部が財務局と改められた。 ち従来の五部一一課が四局九課に改められ、局長のうち二人は局を所管しない無任所局長で、世界立正平和運動本部及び新設の祖廟輪番本部に配された。 伝道本部及び日運宗新聞部が設置されたのはこの時であるが、昭和三五年第八宗会においてこの宗務院機構は再度改まり、総務部(総務課、秘書課)庶務部(寺院課、僧籍課)、教務部(教学課、社会課)、財務部(経理課、出納課)の四部八課となり、それぞれ所管務を分掌した。 日蓮宗共済会の発足はこの時であり、伝道本部は廃止され、新聞部は「宗務院規程」から独立した。 立正平和運動本部は特別規程から宗務院規程の中に移り本部長は務部長が兼任して今日に及んでいる。
次いで昭和三七年第一一宗会を経て、管長は公選でなく管長推戴委員会で推戴することとなり、宗務総長は管長の任命でなく宗会で選定することに改正された。 この改正により管長の行う宗務はすべて宗務内局がその責任を負うこととなり管長は象徴化され、宗務構は立憲内局制へと移行した。
昭和三九年になると「日蓮宗新聞部規程」は廃止、新聞部は「宗務院規程」の中に入って五部一〇課に改正された。 宗務総長に直属する日蓮宗現代宗教研究所が設置されたのはこの年である。 更に翌四〇年新聞部は新設された伝道部(伝道課、新聞課)の中に入った。
四一年には宗務院護法運動本部が設置されて正法護持の運動が強力に展開された。 昭和四八年に至り、第二九宗会において、伝道部との二重機構的複雑を避け、かつ護法運動を時限的感覚から恒久的に定着させる意味から両部を併せて護法伝道部(護法課、伝道課)の設置を見るに至り、新聞部を分けて、宗務構は六部一二課となり今日に至っている。 従って現在の宗務院はこの機構のもとに、役職員を置き宗務を分掌している(日蓮宗規則第二三条)。
宗務院では宗務総長、部長、参与の各宗務役員及び課長、主、主補、書記、務員の各宗務職員その他必要により顧問、嘱託、臨詰、用務員等が宗務の執行に当っている。 宗務内局は宗務総長と部長六人で組織し、毎月一回定例に内局会議を行い、院議は宗務役員と課長で構成し、毎月一回行う(「宗務院規程」第五条)。
六部一二課とは総務部(総務課、統計課)、庶務部(寺院課、僧籍課)、財務部(経理課、出納課)、教務部(教学課、福祉課)、護法伝道部(護法課、伝道課)、新聞部(編集課、業務課)であって所定(「宗務院規程」第六条)の務を分掌している。
宗務院には寺院、教会、結社、僧籍、補教、先達、寺族、宗宝、財産及び宗費の台帳と宗務役職員、宗内役員の名簿が備え付けられている(規程第八条)。
また宗務院は布教、事業運動及び宗制に関する研究を行うため必要の構を設けることができる(第九条)。
現在、立正育英会(第九条第二項)、世界立正平和運動本部(第一〇条)、制度研究委員会(第一一条)、給与委員会(第一二条)、開教布教対策委員会(第一三条)、福祉共済委員会(第一四条)、カリキュラム作成委員会(第一五条)、護法伝道委員会(第一六条)、護法講師団(第一七条)、青少年教化対策委員会(第一八条)、編集委員会(第一九条)が常設され、それぞれの作が行われている。
このほか宗務及び会計を検査するための監査会宗務総長の重要宗務に関する諮問に応じる宗務顧問会、宗制、教学、布教、修法、叙任、転宗、財産処分、社会教化事業、宗宝及び霊跡由緒寺院等に関する事項を審議するための各種審議会が置かれている。
特別規定に基づくものに、日蓮宗綜合財団、日蓮宗共済会日蓮宗現代宗教研究所があり、目的達成までの時限立法によるものに、宗会議員選拳制度整備特別委員会、祖山中心体制調査委員会、沖縄布教振興委員会、中山妙宗合同処理委員会、日蓮宗事典刊行委員会、日蓮聖人第七百遠忌報恩奉行会が設置され、更に霊跡由緒寺院顕彰護持委員会が設けられ、霊跡、由緒寺院の顕彰護持について、必要な援助協力及び勧告指導が行われている。
以上のような宗制の改正に伴う宗務院構の変遷の中で宗務は執行されてきたが、これは主として執行関である宗務内局を中心とする行政宗務である。 しかし宗務を広義に解するならば議決関(立法)である宗会、審査機関(司法)である審査会を含む本宗のすべての宗務を行う事務所が宗務院である。
なお宗制は補則を設けて、宗務の執行につき宗務院が発するものを「告示」、各部が発するものを「通牒」と規定している(宗憲第八四条)。
(三谷会祥)

【補記】
上記の内容および図版は昭和五六年発行『日蓮宗事典』掲載のものである。発行後、宗門機構改革により宗務院の組織体制には大きな変化があった。ここでは歴史的変遷の記録という観点からそのまま収録する。

図版

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