妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

霊跡由緒寺院

れいせきゆいしょじいん #5191

霊跡由緒寺院

れいせきゆいしょじいん

宗憲第一二条に示され、別表に掲げられている「日蓮聖人一代の重要な遺跡及び宗門史上顕著な沿革のある寺院」のことをいい、「その伝統により大本山又は本山の称号を用いることができる」ことが規定されている。
同一三条の「信念興起の依処として本宗の全員が顕彰護持する」規定に基づき「霊跡、由緒寺院顕彰参拝団規程」と「霊跡、由緒寺院顕彰護持委員会規程」がある。
前者の参拝団は、各宗務所に結成され宗務所長を団長、協議員会議長、檀信徒協議会会長を副団長、護法事務長を事務局長とする僧俗一体のものであり、毎年一ヵ所以上を選び期を定めて参拝顕彰する。
後者の委員会は宗務院に設けられ、顕彰護持のため、運営の実態調査を行い、檀信徒の信念興起、伝統の顕彰護持、宗宝宝・重文等の管、寺宝及び財産の護持、その他についての方策樹立に寄与するものである。
委員会は宗務役員・宗会議員・宗務区長霊跡住職及び学識経験者各二人、由緒寺院住職三人で組織され、必要により調査について専門を委嘱する。
任期は二年であるが、役職による就任者はその役職の任期による。
但し宗務総長が欠けた場合は、任期は満了することになっている。
この霊跡、由緒寺院の称号が規定されるに至ったのは次のような経過によるものである。
三派(日蓮宗顕本法華宗、本門宗)合同(昭和一六年=一九四一)直前の『宗制』では、寺格について「寺院ノ寺格ヲ分チテ本山、末寺ノニ種トシ、別ニ門跡ヲ置ク、本山ハ更ニコレヲ分チテ総本山、大本山、本山トシ、末寺ハ更ニ之ヲ分チテ中本寺、小本寺一般末寺トス(略)」(第二六三条)と定められていた。
いわゆる明治初年以来の本末制であるが昭和一五年一〇月二日(一〇日説あり)宗務院に開催された本山会議においてその解体が決議された。
翌一六年の三派合同と同時に、総大五山、三九ヵ本山が末寺を解放して、本末関係に基づく諸手続きは解消し、全寺院がそれぞれ宗務院に直結して一元化することになった。
この合同を会に寺格も改められて「寺院の寺格を分ちて総本山、大本山、門跡、別格山及一般寺院とす」となった(昭和一六年四月二八日発行『日蓮宗宗制』第二五〇条)。
従来の総大五山(久遠寺、本門寺、妙顕寺、本圀寺、法華経寺)のほかに北山の本門寺、京都の妙満寺が旧本門、旧顕本を代表して大本山の寺格に列した(第二五一条)。
小湊誕生寺は昭和二二年昇格、清澄寺は昭和二四年改宗の際である。
門跡及別格山は別表に明示されているが、瑞龍寺門跡のほか、従来の三九ヵ本山は旧顕本の会津妙法寺を始めとする八ヵ寺と旧本門の西山本門寺以下六ヵ寺とを加えて別格山の称号を用いることになった。
かくして永年本末関係を意味してきた本山の文字は宗制から消えたが、終戦直後の『日蓮宗法規』(昭和二一年七月一五日発行)には、まだ総大本山、別格山の互選による宗会議員六名という寺格による特別の権利の保有が規定されていた。
しかし戦後の滔々たる民主化促進の世潮に伴い、宗内における革新団体の活動も活発となり、総大五山の解放、寺格の撤廃、法類制度の打破等を促す主張を前にして、宗務当局もこれに対応する宗制の民主化に鋭意努めた。
その結果、昭和二四年七月第一〇臨宗会において肉倉日道宗務総長は、まず『日蓮宗宗制』中「規則」第八章第三八条を「寺院は、祖山、由緒寺院及び一般寺院とする」という提案を行い可決された。
その提案由を次の如く述べている。
「大本山、別格山等階級的寺格を撤廃し、本山なるが故に参詣するという考え方から脱却して聖滅の霊跡なるが故に、或いは得度の霊場なるが故に、且つは祖師法難の聖地なるが故に随喜参詣するという真実の信仰を自覚せしめたいのであります」即ち本山という寺格に対して参詣護持するのでなく、その本山が有する歴史的尊厳に対して信伏帰趨する檀信徒の真の信仰的依処として位置づけたのである。
その結果、「宗会議員選挙規程」における寺格による特権を解消し、法類総代も宗制から抹消されて「干与人住職の中からその寺院の住職がこれを選定する」と改められた。
更に昭和二六年三月第一三宗会において、現行宗制の如く、霊跡由緒寺院を明確に規定し、古来の伝統感情と歴史的事実を尊重し「霊跡及び由緒寺院は、その伝統により、大本山及び本山の称号を用いることができる」とされたものである。
なお新たに霊跡、由緒寺院を決めるためには、宗務総長の諮問機関である「霊跡由緒寺院審議会」の審議答申を経なければならない。

← 事典トップ