本山会議
本山会議
ほんざんかいぎ
ここにいう本山会議とは明治初年における会議をいう。
明治八年(一八七五)六月一〇日から一六日にわたる一週間、二本榎宗教院(承教寺)において宗規釐正会議が開かれた。
即ち管長新居日薩の主催による第一次本山会議で、別称を碩徳会議ともいわれている。
各府県の諸本山住職、教導職取締役らの代表格をもって構成させられ、一宗の前途を卜すべき頗る重要厳粛なる意義をもち、維新後における一宗会議の嚆矢でもあり、いわば初期宗会の招集として、また宗是根幹の決定を左右するものとして宗門の人々の挙げて注目すべきものであった。
これより以前、明治五年九月、身延等五山によるいわゆる五山盟約があるが、これは政府の要望により管長の選出の方途を主眼としたものであったが、この釐正会議は神仏合併大教院の解散を動機とし、文明維新の旨を体認し宗規僧風の釐正を主眼とすると共に、宿年の積弊打破により宗門一〇〇年の大計を樹立せんとするもので、しかも久遠寺住職管長日薩自ら会議主即ち議長を務め、幹事に福田日耀、神保日淳、永野日定を充て、若園日文、河田日因、釈日禎、石川日大、物部日暉、三村日修、浪越日巌、貫名日学、伊藤日清、林日田、功刀日慈、前田日響、河井日慈、杉山日敬、宇佐美日護、金山日英、秋山日解、藤田日界、早川日悌、加藤日掌、大須賀日梁、推日敬、渡辺日力、秋山日如、小林日誠、山本日諦、金森日圭、藤原日迦、梨羽日環このほか未試補の老僧、元加賀藩士津川日済が席外者として参加する等の堂々たる陣容をもって開かれた。
会期中日薩、物部日暉両聖が摂折論で激論あり、人材登用論が提出されると本山妙顕寺若園日文貫首は発心僧津川日済をぬきんじその場で自山の後任に嘱し同坐の日暉善哉を叫び法衣を脱いで津川に与えたという逸話がある。
この会議の主な狙いは僧侶の自覚と時局の察知、教学の改革と布教の根幹を確立する事にあり、各自悉く忌憚なき所懐を吐露し、危急存亡の宗門復興樹立の献策を求めている。
かくして提案された条件は大教院設立地確定を始め全一八ヵ条で、これらは総て会議期間中に決議され、後来宗是の礎石となるに至った。
逐条摘要して列挙すれば次の如くである。
(一)大教院設立の地を第二大区一一小区芝二本榎一〇番地承教寺と定む。
(二)諸府県下教院の設置は寺院を中心として内地を九区に分ち、第一区を大教院に属し、他の八区に各々中教院を設け余は地方の所望に依り宗学所、或は事務所を設くること。
(三)地方官との協議により公試場を設置のこと。
(四)試補撰挙は各教院に於ける学課第九級就業に非れば不可。
(五)管長の選出は、寺格並教導職の階級の如何を問はず、所謂公撰たるべきこと。
(六)各教正は中教院教師を担当し、宗学所設立の地方は教師を撰出し管長に具申の上大教院受験合格を要す。
(七)在来の諸府県下教導取締を罷免し更に公撰すべきこと。
(八)宗内各区取締は年に両度集会し教務事務一切を打合せ、其の経過を総代全員大教院に出頭報告すべきこと。
(九)大教院宗局役員を六名とし、中、二名を常任、他を半年交代となす。
(一〇)大教院保護永続課金は毎年一円とす。
(一一)学課等級の件。
(一二)得度の件。
(一三)祖師忌を改定して太陽暦に従うべきこと。
(一四)法脈定則の件。
(一五)身延山久遠寺を以て祖山と称し、各本寺住職撰出は人材本位主義となし、法縁年齢の如何に抱泥せざること。
(一六)諸末寺住職の撰出また法縁年齢を不問、人材本位を以て定むべきこと。
(一七)什器什金山林田畑等の寺禄保護のための地方官の協力を得て堕落僧の自由処分を禦ぐべきこと。
(一八)寺禄調査を行ひ以て寺院の等級を定むべきこと。
などを決議し、六月二五日付をもって宗内全般に対し、各件実践施行して宗規釐正に努むべきことを布達しているが、概観して一宗の舊慣刷新の意図は十分に察することが出来る。
また各決議条件の多くは会議開催の提唱者管長日薩によって逐次具現されたが、明治一一年四月の第二次本山会議において、八年会議の理想を更に充実のため、本山等差の件等一〇ヵ条を定め、また明治一七年に至り第三次本山会議を開催し宗制寺法を定めた。