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摂折論

しょうしゃくろん #2291

摂折論

しょうしゃくろん


摂折とは、摂受(しょうじゅ)と折伏(しゃくぶく)の略で、摂受は摂取納受・摂引容受の意で緩やかに他者の長所を育成しつつ善に導く化導法をいい、折伏は破折調伏・折破摧伏の意で他の悪を許さず徹底的に邪義を挫き破り正義を顕正しようとする化導法のこと。
教では衆生を教え導くための方法として摂受折伏の二つの化導法が提示されているが、日蓮聖人は特に折伏をもって弘の方法とし、諸宗諸経の権門のを糾明されたのである。 ち『開目抄』に「夫摂受折伏と申す法門は水火のごとし。 火は水をいとう。 水は火をにくむ。 摂受の者は折伏をわらう。 折伏の者は摂受をかなしむ。 無智人の土に充満の時は摂受を前きとす。 安楽行品のごとし。 邪智謗法の者の多き時は折伏を前きとす。 常不軽品のごとし」(定六〇六頁)と述べ、『如説修行鈔』に「凡そ仏法を修行せん者は摂折二門を知るべき也。 一切の経論此の二を出でざる也。 (略)末法の始の五百年には純円一実の法華経のみ広宣流布也。 此闘諍堅固白法隠没の時と定めて、権実雑乱の砌也。 敵有るは刀杖弓箭を持つべし。 敵無きは弓箭兵杖何にかせん。 今のは権の敵と成る也。 一乗流布の時は権有て敵と成りてまぎらはしくば実より之を責むべし。 是を摂折二門の中には法華経の折伏と申す也」(定七三五頁)と述べているのがそれである。 そして聖人末法の時代の謗法充満の国においては、専ら折伏を用うべきであるとして、いわゆる「四箇格言」に代表されるように、法華一乗の旗幟を高く掲げ、諸宗諸を破折されたのである。
ところが聖人滅後、団の伸張に伴い弘通の方軌としての摂折二門の進退用捨が論ぜられるようになった。 ある者は折伏を肯定して摂受を否認し、ある者は摂受を主張して折伏を不可とし、ある者は折衷説を唱えるなど、学史上に種々の主張が展開されてきた。
聖人滅後の直弟流伝の時代から門流分立を見る鎌倉末から室町期は折伏主義が本宗の主流であり、安土・桃山を経て江戸前期は摂受主義の宗風となる。 殊に江戸前期に折伏主義を唱えた不受不施派は幕府から弾圧され、禁制宗門となった。 江戸後期には不受論と異なる折伏主義を提唱し、宗門改革を試みようとした一派が現れた。 かように摂折論団の盛衰、代背景と密接に関わり合いながら展開してきたのである。
聖人直弟間における波木井実長信仰をめぐって展開された五・一の対立は、謗法に対する摂折の進退問題もその一因であった。 それは内に厳しく外に寛容な摂受的な日昭・日朗・日向らの五師と、内外共に厳粛な折伏主義に立つ日興との対立であった。
室町代に入ると、身延の行学日朝(一四二二-一五八〇)は折伏為正・謗施不受を主張し、中山系の久遠成日親(一四〇七-八八)は『立正治国論』『折伏正義抄』を著して折伏伝道に従した。 日親は折伏不受を信条とし、不受不施を主張し、雑乱勧請を排し、社参を厳禁するなど、折伏正義を強調し、国家諫暁を企てること八回、種々の迫害を受けたのである。 また慶林日隆(一三八五-一四六四)も折伏正意・摂受傍意を主張し、玄妙日什(一三一四-九二)も強義折伏化導を専らにし、摂受主義を破折し謗施不受を主張している。 この日什門下の日仁・日運・日遵らは、什門伝統の折伏逆化の伝道活動を行い線の拡張に努めている。 更に円光日陣(一三三九-一四一九)も折伏主義を奉じ、本国寺日伝と本迹致劣を争った。
こうした宗門上古の諸師が折伏主義を主張する中にあって、妙顕寺系の日霽や日具は寛容主義に立ち、謗施受用を認めていたことが注目される。 これは日隆の諫状にも見られるように、妙顕寺が高貴顕門と交わり、貫首の多くもその出身なることから生れた当然の主義であろうか。 そして妙覚寺分立の因もここにあったのである。
かくして諸門流の分立は、大いに宗勢を拡張させることとなったが、同に外的圧力も比例して増大した。
寛正六年(一四六五)叡山衆徒法華宗を洛外に放逐せんとした。 そこで翌七年、諸門流は一致して外敵と当り、一方、内的に互いに和融し団結するため、異体同心の志をもって折伏弘通すること、謗者の供養を受けぬこと、など六ヵ条の盟約を締結した。 いわゆる「寛正の盟約」がそれである。 この提唱者は真如日住(一四〇六-八六)であり、不受不施信条の厳守によって宗団の生活様式の上に和融の目標を置いたのであった。 これは山徒の襲撃という外的刺激により一は成功したが、間もなく法嫡正潤の争いや本迹一致勝劣の論が起り、この盟約も破れてしまった。
この頃から宗学研究の気運は門流を超えて盛んとなり、日真(一四四四-一五二七)・日辰(一五〇八-七六)・日健・日諦・日能らによる遺文究が行われた。 各門流ともに宗学の隆盛につれて社会的勢力も増大し、文年の初めには京都に二十一箇本山、その他洛中に四一寺、洛外を合せると一三〇余箇寺を数えるに至った。 文五年(一五三六)本宗は叡山の襲撃を受け、二十一箇本山を始め一宗の洛中寺院は殆ど焼き払われ、洛中の大半は焦土となった。 諸本寺は堺及び近辺に難を避けたが、天文一一年洛中還住の勅許を得、逐次帰洛し諸寺競って再興に従し、十六本山の復興を見たのである。 しかしこの天文法難の打撃は大きく、更に続いて安土法難の追い打ちを受けて宗勢は頓挫し、宗風は一変したのである。 折伏正意・謗法呵責を否定するまでには至らなかったものの、諸門流ともに唱えていた一国同帰の本門戒壇建立の主張が影を隠し、折伏強義の伝道に代って摂受寛容の化導が盛んとなり、宗学は衰えて台学が興隆するようになった。 そして信長以後、強力な統一政権が推進されて来ると、諸宗折伏国家諫暁の宗風は全く影をひそめ、国家の宗教政策に随順し、檀徒の外護をたのみ、台学の研究に没頭するようになった。
しかしこのような宗門の状態に満足しない一つの革新運動が起った。 不受不施論がそれである。 ち本宗未信者からの布施は受けず、また未信者に法は説かないという態の高調である。
文禄四年(一五九五)の秀吉発願による大仏千僧供養会への出仕をめぐり、受不受の議論が起った。 この聖人の遺訓制法を堅守すべし、と強く不受不施を主張したのが妙覚寺日奥(一五六五-一六三〇)であり、彼は遂に宗門の軟弱を慨いて妙覚寺を退き丹波小泉に隠れた。 慶長四年(一五九九)日奥は康の命により受派の日重・日紹らと対論させられ、謗施不受・不惜身命の折伏を強調したため、対馬に流されたのである。 更に寛永七年(一六三〇)、寛文五年(一六六五)と相続いで、強義折伏、不受不施を奉ずる池上日樹・中山日賢・小西日領・野呂日講・玉造日浣・平賀日述らの諸師が流に処せられた。 かくて文・安土の二大法難を経て物質的精神的勢力を失った本宗は、徳川幕府の巧みにして強固な宗教政策によって、その本来の折伏的気魄は全く消沈し、受派を代表する日重(一五四九-一六二三)・日乾(一五六〇-一六三五)・日遠(一五七二-一六四二)らによる摂受主義が宗門の中心主流となったのである。
しかし宗門全体が幕府の宗教政策に順応した中にあって、家康の圧迫を恐れず盛んに折伏弘教を実践し、不受不施を唱えたのは日什門流の常楽日経(一五五一-一六二〇)であり、ために日経と弟子五人は刵劓(ぎじ)の刑に処されたのである。
江戸期における寺檀制の確立は僧風の軟弱という悪弊を生み、草山元政(一六二三-六八)による法華律の提唱があった。
本宗の宗勢拡張の重要具であった宗論は、幕府の禁止するところとなったが、これに代って出版事業の発達を利して文書による宗論が行われ、一音日暁・蓮華日題らは折伏教化、不受不施義を盛んに主張した。 しかし宗門の大勢は摂受主義であり、一妙日尭(一六三四-一七一四)・禅智日好(一六五五-一七三四)は摂受主義を主張し、殊に日尭は摂受為本論を説いて摂受主義の積極的論づけを試みた。
江戸後期に至ると、台学中心の檀林教学に対する反省から宗学復興の気運が起り、一妙日導(一七二四-八九)の『祖書綱要』二三巻の完成を見た。
宗学意識の興隆は、不受論とは異なる立場からの、摂受主義を排し折伏主義を唱え宗風刷新を計ろうとした一派を生み出した。 守要日康・悦可日巧・旨広日義らがそれである。 日義は『蒭蕘集』を著し、元政・日深の摂受主義を排し折伏主義を強調した。 かかる折伏主義に反したのが道樹日幹・妙解日透らの摂受論者であり、日透は『護法得宜論』を著し、不受派並びに折伏主義を破折、摂受為本論を展開した。 これに対し正日長は折伏こそ宗法の正軌であると折伏論を強調した。 しかしその後、桓叡日智(一八一九-五四)・本妙日臨(一七九三-一八二三)・優陀那日輝(一八〇〇-五九)らによって摂受論が主張され、遂に宗門の大勢は摂受論に帰したのである。 そして折伏論は、むしろ田中智学らの在家者のに継承されていったのである。
望月歓厚『日蓮宗学説史』、執行海秀日蓮宗教学史』、渡辺宝陽『日蓮宗信行論の研究』》
(小松邦彰)

【補記】
平成一一年に日蓮宗の今成元昭師が「日蓮は折伏ではなく摂受を本懐とされていた」との所説を発表したことが契機となり、日蓮門下を巻き込んでの「平成の摂折論争」といわれる論議が起こった。この論議は、近代日蓮宗が始まってから百年間にわたる摂折に関わる教学論争の帰趨を定めるものとして大いに注目を集めた。日蓮宗の近代とは、摂受主義と折伏主義の対立から始まっており、先ずその経緯を見ていくこととする。
周知のように、明治七年から始まる近代日蓮宗は、充洽園で学んだ新居日薩管長の下で優陀那院日輝の教学を僧侶教育の根幹としてスタートする。その教学では「立正安国論は当時すでに其の用を為さず。今世に至って全く其の立論の無実を見る」(「庚戌雑答」)と述べているように、折伏中心の布教法を時期不相応として否定し、寛容な摂受主義をもって社会との融和を図ろうとした。いわば明治の文明開化時には相応しい現実重視の摂受教学だった。この優陀那院教学を学んで、後に摂折観の違いで徹底的な批判者となったのが、明治八年に日蓮宗大教院に入学した田中智学である。
智学は、父親が折伏的な法華信仰をもつ江戸講中の寿講の高弟・多田玄龍だったため、始めから教科書(『弘教要義』)の摂受主義に違和感を覚えて、後に独学により宗祖の折伏主義を確信してからは宗門から離れ、やがて「日蓮主義」という言葉を作り出して、折伏中心の教学を組織した。智学の日蓮主義の主張は、急速な富国強兵・殖産興業の近代化を遂げる明治後期の状況に適合して、その折伏主義は大日本帝国の侵略主義とも重なり、国体論としても整備されていく。智学の教学は、その旺盛な教学体系化の活動によって日蓮門下全体に広まり、日蓮主義という言葉はやがて一般名詞となって、摂受主義だった日蓮宗もその影響力を全面的に受け入れていき、昭和三年に日蓮宗宗務院は月刊『日蓮主義』を創刊する。その第二号の管長法話には「畢竟宗門の此雑誌を発行したのも弘通本位の宗是を復活したのである」とあって、摂受主義からの転換をはかって折伏的な広宣流布に乗り出すことが宣言されている。
しかし、昭和二〇年の敗戦を迎えると一転して、田中智学の折伏主義は天皇中心の国家主義であり戦争を推進した思想的戦犯だとして世間に断罪された。この時に日蓮宗は、影響を受けた田中智学の教学をきちんと批判的に再検討することなく、「立正安国」を「立正平和」と言い替えることで国家主義的なイメージを払拭して、戦後の民主主義の時代に適応していった。「立正平和」というスローガンは摂受主義の表明であり、その時点で日蓮宗での折伏主義は教学的言説としては残っても、布教の現場では封されたといえるだろう。
その一方で、戦後に田中智学の国立戒壇論を取り込んで、大々的に折伏主義を宣揚したのは創価学会だった。創価学会は、戦中に弾圧を受けたという反戦イメージを最大限に活かし、戦後民主主義の信教の自由を折伏主義に接続して折伏大行進という暴力的で侵略的な布教を展開した。また、国立戒壇建立という目標により敗戦で抑圧されたナショナリズムの心情を吸い上げながら、教団を肥大化していった。戦後の日蓮系の摂折論議は、こうした創価学会の暴力的折伏に反発し批判する形で論じられてきたといえる。日蓮宗の摂折論もまた、小樽問答や折伏大行進への対立の中で、その暴力的折伏を批判することに終止してきた。そのために、自らの戦前からの歴史を省みての議論を深めるという機会がなく、摂折論については教学では折伏だが教化の現場では摂受という、布教現場と学の乖離も生まれてきた。
こうした経緯と状況のなかで起こった平成の摂折論争だが、今成師の所説は『宗義大綱読本』の「聖人が開宗以来、専ら折伏主義に立たれたことは周知のことである。」「折伏立教が本宗の大判であることは論を俟たない。」という宗義解釈を真っ向から否定するものだった。この所説が論争への発火点になりえたのは、折伏主義が建前上当然な教学的状況のなかで意表をついたこともあったが、その論拠が単なる解釈ではなく御遺文のテキストクリティークを踏まえた学術的なものだったためでもある。その当初の所説は次の通り。
①『宗義大綱読本』の「折伏立教が本宗の大判であることは論を俟たない」は誤りである。②日蓮聖人の本懐は摂受である。③折伏は、武器を持つことも相手を罵倒することもよい暴力的な布教法である。④確かな御遺文には「法華折伏破権門理」(法華玄義九上)の語句はない。⑤「法華折伏破権門理」と「折伏」の語句を多用する『如説修行抄』は、偽書である。⑥『開目抄』に「常不軽品のごとし」の語句はなかった(聖人滅後の付け加え)⑦日蓮聖人は、いつも「不軽」と表記して「常不軽」とは表記しない。⑧不軽菩薩は、摂受である(値難忍受・不惜身命・逆縁下種であっても)⑨日蓮聖人は、摂受・折伏の語句を常に一双として使い、片方のみ多用することはない。⑩日蓮聖人は、摂受・折伏の二義は仏説に任すとして私的な解釈はしていない。⑪日蓮聖人の摂折への言及は『開目抄』での難詰に応えての数年のみ、摂折に拘らない。⑫日蓮聖人は『観心本尊抄』で、折伏は王の役目、僧は摂受であると述べている。
こうした各説に対して、日蓮宗内よりむしろ勝劣派の教学者や論者が早くに多くの反論を出し、その後に宗内の論者が続いた。また宗内組織の研修会でたびたびシンポジウムや研修会が開かれて、論議がなされた。そうした論議では「不軽菩薩は摂受か折伏か」が焦点となることが多く、また武力を行使する賢王の折伏から「折伏と暴力」なども論じられた。論議が高まるなかで日蓮宗宗務院も、勧学院会議と現代宗教研究所からなる日蓮宗総合研究会議を開催して、「布教伝導の現場における摂受・折伏のあり方と念的裏づけ―宗門の現代社会への対応のあり方」を諮問した。
その後に数回の会議によって検討された答申書は、平成一六年の「第九〇定期宗会施政方針挨拶」で提示された。その答申書の内容は、「日蓮聖人の「摂受」「折伏」の意を正しく理解すること、「摂受」、「折伏」共に大慈悲心の発露であること、そして現代社会で布教伝導を行うに当たって自らの姿勢を自問自答し社会と密接な関係をたもちつつ、各人の立場から個性や特性を発揮して「摂受・折伏」を使い分け、あらゆる人々と接し、法華経信仰へと導き入れなければならない」という、摂折兼用のあたりさわりのないものだった。
しかし、論争としてはその後も継続されて、平成二二年七月には『教タイムズ』紙上に興風談所の山上弘道師が書いた「今成元昭氏の「不軽菩薩・日蓮=摂受」論批判」の記事が掲載された。その後すぐに、今成師の「佐前佐後の変化、教学界の定説」が反論として同紙に掲載されたが、「本紙上での再反論には及ばない事とする」との結語もあってか、その後の論戦には至らずに終わっている。しかし、平成の摂折論争は、日蓮聖人がその跡を継ぐと述べられた不軽菩薩の布教法と修行法のあり方を問い直し、その学の核心に変更を迫るもので、論戦が生じにくい日蓮学の場においては久々の意義ある論争となった。
《『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人摂受折伏四箇格言」の項、小松邦彰・花野充道『日蓮の思想とその展開』(春秋社『シリーズ日蓮』二)、茂田井教亨『日蓮の行法観―その思想と生涯―』、今成元昭「教団における偽書の生成と展開―日蓮の場合」『文学』》
(澁澤光紀)

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