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三村日修

みむらにっしゅう #183

三村日修

みむらにっしゅう

(一八二三-九一) 身延山久遠寺第七五世法主。
日蓮宗第八代管長
祖廟中心体制の確立をめざし明治前期における日蓮宗の護持復興を図った。
新居日薩吉川日鑑と共に「薩鑑修」と呼ばれる日蓮宗及び祖山中興の一人。
備後深安郡川口村(広島県福山市)の生まれ。
父は中村源助、母は三村氏。
幼名万吉。
九歳の、備中(岡山県)妙伝寺普門日現について出家
のち京都妙覚寺日合に従い鶏冠井檀林に学び、山城(京都府)久我村本清寺に住したが、研学の志やみがたく関東に赴き、やがて充洽園に投じて一三年修学に励んだ。
更に中村檀林に四年間学んだ後、帰郷して水呑村妙顕寺住職となった。
次いで江戸に出て中村正直のもとに入門、宗教院教師・大阪中教院講主を経て、明治一一年(一八七八)に本圀寺住職、一八年日蓮宗管長を歴任。
翌一九年七月に法主となった。
二一年八月、宗門における育・布教の興隆を図るため教権一致・政令一体の方策を採用、同年九月に総本山・大本山五ヵ寺及び地方末寺代表者を召集して「諮問総会」を開催。
宗規改良議案を提出した。
これは従来の本山住職のみの審議ではなく、地方末寺住職の意見を反映させようとする漸新的な試みであった。
また会開設の気運を背景に、代議政体に擬えて開催された会議であった。
この改良議案は身延中心体制を制度化することを骨子としていたが、この原案を支持推進する改革派は合末論を主張、これに対して本山側は同盟して本末関係の伝統を強調して対立粉糾したため、改良原案の実施は延期され、二三年管長を辞任して身延山に帰った。
身延山においては官林の永代委託を宮内大臣より取りつけて御料林払下げの素地を作り、身延保存会を設立し諸堂の修覆事業に尽力、二三年五月六日より二六日まで初の居開帳を挙行した。
また身延檀林の移転後も身延山における学問興隆を図り、宗門専門学枚(のち祖山大学林)を興した。
《『身延山史』》

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