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祖山

そざん #4301

祖山

そざん

日蓮宗宗憲は「身延山久遠寺を祖山という」と明示し、更に本宗の総本山であって祖廟格護の霊山として本宗の全員が尊崇護持すべきことを規定している。
この立法の精神は、『波木井殿御書』「墓をば身延山に立てさせ給へ、未来際までも心は身延山に住む可く候」、「日蓮が弟子檀那等は此山を本として参るべし、此則ち霊山の契なり」(定一九三一-二頁)の祖意に基づく。
この祖書のうちに示されている本朝の霊山、棲神留魂の山、祖廟の聖地という身延山の尊貴性が宗憲として成文、制化されたのである。
したがって「祖山」の呼称は身延山だけに限られる。
過去において「祖山」の呼称は身延以外になかったわけではなく、池上本門寺・比企ケ谷妙本寺の両山を「天下の祖山となす」との記録がある(興栄両山二祖日朗菩薩碑銘並)。
祖山」を身延のみのものとしたのは六牙院日潮からとされている(『祖道復古』・『池上本門寺史管見』)。
明治五年(一八七二)九月行われた「五山盟約」の条文中、身延に関して「大本寺」「席首」とあるが「祖山」の文字は用いられていない。
新居日薩が「単称日蓮宗」の初代管長に就任したのが明治七年であるから、宗門の制度のようなものと関連して「祖山」と呼ばれるのはそれ以後である。
明治八年開かれた「宗規釐正会議」(第一次本山会議)の決議第一五条に「身延山久遠寺ヲ以テ祖山ト稱シ(略)」とあって、これが宗規の上で「祖山」を公称する最初であろう。
明治一〇年一月、京都本山本満寺住職久保田日亀が管長石川日大に宛てた廃本合末の意見書には「釐正第一五条追加に、身延を以て祖山と為す、予此に至り覚えず節を撃って日く、根幹動ぜず万枝を統ぶ、既に天下の望を達すと謂ふべし。(略)祖山の祖山たるを奉行せんと欲すれば、各本山の名称を廃し、悉く所轄末寺の称号を下し、蝸牛螂斧の小見を挫折し、以て本祖大望の本懐を暢るあらば(略)天下一宗の主宰を定むと謂ふべし」とあって祖山結帰こそ宗風昂揚の肝心として、その制化を称揚している。
しかし翌明治一一年の第二次本山会議は、身延を「総本山」とし「管長受持の寺跡」と決定したので爾来宗制上における「祖山」の公称は消えた。
昭和一〇年(一九三五)第三〇宗会で「祖廟中心制度委員会」が組織され、昭和一三年祖廟中心案が可決されたが、これは法主即管長制であって、宗規第四条に「管長ハ総本山久遠寺住職タル人(略)」とあって「祖山」の文字は見当らない。
この制宗教団体法の施行や、昭和一六年の三派合同によって、解消した。
しかし、合同直後の宗制第二四四条「制度調査会」の調査審議項の冒頭に、改めて「祖廟中心制度の具現」があるのは象的である。
昭和二四年に至り、肉倉内局の第一〇臨宗会において、大本山・別格山の階級的寺格を撤廃した際、規則第八章第三八条に「寺院は祖山、由緒寺院及び一般寺院とする」、規程第一五号第一条に「本宗ハ久遠寺ヲ以テ祖山トスル」と定め、ここに再び身延山久遠寺を宗制上「祖山」と公称することになったのである。

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