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合末論

ごうまつろん #1037

合末論

ごうまつろん

合末とは宗門寺院が個々の本山と末寺の関係を廃して、全寺院が悉く総本山身延山久遠寺に帰一することをいう。
この論は宗門が身延山帰一中心体制を敷いて、信仰の確立と行政の一本化を図ることを本旨として建議された、明治二〇年代の宗門改革論である。 廃本合末論ともいう。
明治九年(一八七六)宗門は日蓮宗を公称し、統理者として管長職を定め、東京の大教院の中に務局を設けて運営に当っていたが、これは維新政府による政令に基づく措置であった。 明治一七年政府は大院制を廃し、教団の管理を各宗の管長に一任し、宗制寺法を定めさせ、管長を勅任待遇とした。 そこで管長吉川日鑑(身延山久遠寺住職)は、同年五月、宗制寺法を定め、大教院を宗務院と改め宗務体制を整えた。 ところが実上、その基盤は三千数百ヵ寺が四四ヵ寺の本山に末寺として所属し、その本末関係によって体制付けがなされていた。 しかし宗祖棲神の霊地祖廟としての身延山に対する帰依尊崇の精神を基として、身延山帰一の新体制を図る論議が、激動の新時代を背景として起って来たことにより、具体的に従来の本末関係を撤廃して身延山に帰一し、身延山中心体制を確立して新代に臨むべきであるとの論が生れたものである。
この合末論は明治二一年七月二八日、東京白金覚林寺住職本間海解、山谷正法寺住職佐野前励代表署名建議による「日蓮宗革命趣旨書」として提出された。 同書では「宗今日ノ急務タルヤ、此ノ改革ヲ以テ第一着トナスへシ。 其果シテ、然ラハ之ヲ為ス如何。 謂ク、諸本山主各々切ニ此ノアル処ヲ察シテ非常ノ英断ヲ施シ、速カニ数百年来ノ舊制ヲ捨テ、此新法ニ付キ、各々其ノ末寺ヲ諭シテ更ニ其関渉ヲ解キ、拳ゲテ以テ之ヲ総本山ニ委托スルノ策ニ如クナキナリ、然リ而シテ総本山ニハ三千余百ヶ寺ヲ統轄シテ、以テ各本山ノ維持ヲ負担シ、務運転ニ、学ノ方法ニ、百一定ノ制令ヲ施シナバ、玆ニ至テ宗ノ運動始メテ其歩ヲ進メテ此新世界ト並ビ行クノ緒ニ就カンコトヲ期シテ待ツへキナリ」として合末の本旨を主張している。
同書は全寺院に配布されたが、当時、管長三村日修が諮問総会に提案した宗門改革案身延山中心体制策は当局と対立していた本山側の反対を激化する要因となり、革新と保守派の対立抗争といわれる「一六両条の争い」を一段と熾烈化させる結果となった。
なおそれ以前にも京都本満寿住職久保田日亀は、明治一〇年一月七日付管長石川日大に対する意見書で身延山中心制度を望んで「東関、西京、本山併立し各々門祖に誇り、因襲亦之に由りて極めて多し、されば縦令祖山の名称を立て、同唱之を口に吐くも、面従腹背の意なきを確信すべからず。 是に由て之を言へば、万口同轍の表面を見ず。 実に祖山祖山たるを奉行せんと欲すれば、各本山の名称を廃し、悉く所轄末寺の称号を下し、蝸角螂斧の小見を挫折し、以て本祖大望の本懐を暢るあらば、中興の功績万世に輝き、天下一宗の主宰を定むと謂ふべし」と合末論を唱えている。
日蓮宗宗務院編「祖道復古』、影山堯雄「日蓮宗教団の展開」(望月歓厚編『近代日本の法華』)》

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