佐野前励
佐野前励
さのぜんれい
(一八五九-一九一二)
安政六年二月一八日、岐阜県大垣の下河善兵衛(天台宗)の長子に生る。
三歳で生母に死別、一二歳で江戸の父の許に趣く途中、日蓮宗信徒と知合い、身延に参詣し、日蓮聖人に結縁。
浅草寺地内の家より近くの日蓮宗正法寺佐野日遊の許に足繁く出入りし、一三歳で養子となり得度。
明治七年(一八七四)中教院入学、次いで大教院に入り新居日薩に師事。
同九年一八歳で正法寺二七世。
やがて京都に遊学し、本間海解と意気投合。
二人連名で日蓮宗改革の綱領六条を作成して全国に檄をとばし、管長三村日修に上申。
その主張は第四条の身延一本山制として全国寺院をその末寺とする合末論にある。
同二一年八月、管長は総会を開いて可否を諮問したが京都諸本山、池上、中山等の猛反対にあい、流会。
改革派のため宗会と本山同盟会は二五年一月に和解したが、結局は本山側の勝利となる。
これを一・六両条の争という。
第一条は身延山住職が管長に就く、第六条は宗務院を身延山に置くという合末の具体案である。
改革運動に敗れた佐野は中洲日振から経営を依嘱されていた福岡県本仏寺に去る。
時に二三年六月、三二歳。
福岡県はかねて蒙古襲来の古戦場(東公園)に鎌倉武士を彫刻した記念碑を建設する計画を有していたが、早耳の佐野はこれに日蓮聖人銅像建設を加えることを県に交渉、管長の諭告を仰いで宗門事業とし、同年一一月銅像建設の発会式を挙行、讃同の諸師と共に全国を布教行脚して基金を募集、二五年四月起工式、三四年一二月竣工、三七年一一月除幕式を行った。
銅像は地上一二一メートル余、蒙古に向って『法華経』を説く姿で、竹内久一の設計、岡崎雲声の鋳造である。
四三年六月五二歳、宗務総監に当選、日蓮宗護法協賛会を設置して朝鮮開教、教学振興を計り、北海道の十勝・北見の地(現・陸別町小利別(しょうとしべつ)。日宗・法華の地名が残る)に未開墾地三〇〇町歩の払下げを受けて法華村を建設する等、種々の宗門事業を興したが、在職二年余にして尿毒症のため高輪病院にて、大正元年九月七日、遷化。五四歳。
体精院日菅。