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吉川日鑑

きっかわにちかん #1038

吉川日鑑

きっかわにちかん

(一八二七-八六)
上人諱は日鑑、宇誠研、自厚院と号した。 別に清舎と称す。 姓は吉川氏、文政一〇年一一月一七日高知に生る。
六歳で體蓮院日凝の弟子となる。
一五歳で求法院檀林に学び、一六歳の時、日凝が要法寺三二世に転住するに従って塔中、壽仙院の主となった。
次いで飯高檀林に学んだ。
また金沢の優陀那日輝に対し日凝は書を送ってその教導を依嘱し、嘉永三年(一八五〇)彼地に赴き数年就学した。 日薩、日修、日昇ら皆同学であった。
嘉永七年学を了えて江戸に来り、堀之内妙法寺に寓し、慶応二年(一八六六)下総内山妙光寺に住職した。
山門の荒廃甚しかったが、修補に努め、寺観を一新したという。
また窃に私塾を開き、二三子と共に斯道を修め、桜花園と称した。
そのまた飯高、中村の檀林に往来し、授大いに勤めた。 飯高玄六三〇世。
明治七年(一八七四)一一月、七三世日薩の依頼に従い、院代として身延に登り、管長として東京において活動し、日鑑は一山の整に従い、日薩をして後顧の憂いなからしめた。 この両師は、「吾人等の仲を中傷する如き第三者の言は、調べずには信用しまい」と約束したという。
明治八年一月一〇日、夕西谷本種より出火して一山殆ど焼失した。
一四年に迎える日蓮聖人六〇〇遠忌を控えて、この復旧に両師は大いに肝胆を碎き、九年一二月二日に七四世を継ぐ。
一一年には七代管長となり翌年辞す。
一二年より一四年に亙り、甲信越等に巡錫し、一四年七月祖師堂竣工し、左の通り、四三日の遠忌大会を奉行した。
 自四月二九日 至五月一三日 一五日
 自七月七日 至七月一三日 七日
 自一一月一五日 至一二月五日 二一日
右三大会には諸末寺末頭登山して勤仕し、法華経一万部を読誦した。
日薩もまた登山し、日鑑と交代に導師を勤めた。
一七年、再び管長となり、翌年辞した。
菩提梯横の清兮寺は、自身の隠居所として建立したが、一九年四月の完成に先立つ同年一月一三日、六〇歳をもって遷化。
在住一一年であった。
日鑑、人となり温和、しかもに臨むや勇為果断、に長じ、雄健の筆は山内各処に日鑑揮毫の多数の扁額が残されている。

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