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正直

しょうじき #3677

正直

しょうじき

日蓮聖人は「正直」の徳について『諫暁八幡抄』に「正直に二あり。 一には世正直、(略)二には出世の正直」(定一八四八頁)と述べ、世間的倫理と的なものとの二つあることを指摘している。 世一般には素直で正しいこと、心が真っ直で正しく、うそいつわりがないことをいうが、教ではの本意にかなうこと、また一仏乗の妙法たる法華経を指すのである。 ち法華経方便品に「正直に方便を捨てて但だ無上道を説く」とあるが、これは法華経が出世の本懐を説き明かした唯一仏乗の教えであることを、自ら宣べられた文である。 従って法華経以前の諸経は不正直の随他意方便経であり、法華経のみが正直の随自意真実経となる。
法華経が随自意である理由を聖人は「仏と申すは正直を本とす」(『法華題目抄』定四〇一頁)と示して、釈尊の正直から出ていることを述べている。 そして聖人は法華経を「正直の御経」(『法門可被申様之事』定四五五頁)、「実語の中の実語」(『日妙聖人御書』定六四七頁)、「正直の金言」(『御衣竝単衣御書』定一一一一頁)等と呼ばれるのである。 更に聖人正直の経たる法華経を信じ行ずる者もまた、正直者でなければならないことを説くのである(『日妙聖人御書』定六四七頁)。
このように聖人は「正直」の徳を尊重し、他人に説くだけでなく自らそれを実践し「世間の上下万人云く、八幡大菩薩正直の頂にやどり給ふ、別のすみかなし等云々。 (略)但し日本国には日蓮一人計りこそ世間・出世正直の者にては候へ」(『法門可被申様之事』定四五五頁)と、自らを「正直者」と規定するのである。 これは諸宗ならびに為政者に対する折伏、諫暁の行動を通して、聖人の正直と釈尊の正直とが連関し一体化されて、この「正直者」はやがて「仏の御使」(『撰時抄』定一〇一七頁)、「法華経の御使」(『富木入道殿御返事』定一五九〇頁)と拡大され、末法における衆生救済のためには迫害受難を顧みず、身命を賭して「仏勅」を奉ずる法華経の行者日蓮が、真の正直者であり末法の正導師たる本化上行の応現であるとの「師」自覚を生ずるのである。
なお聖人は「八幡大菩薩は正直者の頭にやどる」という当時の社会通念に従い、この正直の徳目を歴史的事象の解釈に用い、承久の乱に言及して、亡国の悪法たる真言の祈祷を用いて敗れた後鳥羽上皇を不正直、妄語の人と批判し、北条義時を「不妄語の人、八幡大菩薩の願い給ふ頂也」(『諫暁抄』定一八四八頁)と評している。 聖人におけるかような正直の解釈は「百王思想」についても見られる。 聖人は当時の百王思想について、単なる皇統の継承によるのではなく、「正直」の徳をもって王たることの条件としたのである。 そして百王守護を誓った天照大神・八幡大菩薩の二神も、法華経の教主釈尊の垂迹であると位置づけることによって、百王思想をも聖人学の中に取り込み位置づけたのである。
《『遺文辞典』教学篇「正直」の項、『日蓮辞典』「正直」の項》

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