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八幡大菩薩

はちまんだいぼさつ #726

八幡大菩薩

はちまんだいぼさつ

宮に奉祀される神。
神・八大明神ともいう。
また、日蓮聖人は「正八幡、正八幡宮、正八幡大菩薩」と呼んで八幡大菩薩の称号とともに用いた。
ただし、歴史的には正八とは大隅正八幡宮をさす。
教の立場から八幡宮の本地菩薩として呼ぶ称にて、神混淆の結果起ったもの。
神の示現に関し、『帝王編年記』に「三二年(欽明天皇)辛卯、八幡大明神豊前の宇佐郡に顕れ給う。
ち三歳の小児現れ託て曰く、我は是れ日本人皇第一六代譽田天皇広幡八幡麿也、我名護国霊験威神大自在王菩薩と曰く、々所々、神明を垂跡し、初めて顕坐す」。
二二社本縁に「八宮、本宮は豊前宇佐宮に座す也、人皇第一六代譽田天皇の御霊也。代三〇代欽明天皇の御宇に、始て化現し給う」とあり、応神天皇の御霊にて、欽明天皇三二年(五七一)をもって同地に顕れたとし、その信仰は『続日本紀』第一三平一二年(七四〇)一〇月の条に「大将軍東人に詔して八神に祈請せしむ」。
同第一四平一三年閏三月の条に「八幡神宮に秘錦冠一頭、金字最勝王経、法華経各一部、度者一八人、封戸の馬五疋を奉り、又三重塔一区を造らしむ。宿祷に賽するなり」等とあり、天平時代以後、八幡は尊崇頗る篤かったようである。八幡大菩薩の称号に関しては、弘仁一二年(八二一)八月一五日の太政官符に「天応の初め、神徳を計量して更に尊号を上り、護国霊験威力神通大菩薩と曰う」。
延暦二年(七八三)五月四日の宣に、「吾れ無量中に三界に化生し、方便を修して衆生を導済す。吾が名は是れ大自在王菩薩なり。宜しく今加号して護国霊験威力神通大自在王菩薩を曰うべし」等とあり、天応(七八一)の初め頃から延暦の頃、既に大菩薩号を賜っていたようである。
また八の名称に関しては、『雍州府志』に「八宮、男山石清水地に在り、男山、或は雄徳山と称す、又鳩嶺と号す。欽明皇三一年冬、肥後の菱形、池辺の民家の児、三歳の時神託を曰く、我は是れ人皇一六代、譽田八幡麿呂也、茲に刺使を差し、豊前の宇佐宮に鎮座して、八幡と称す、一説、昔白幡皿、赤幡皿、天より筑前の那珂郡筥崎に降る、則其處に松を植えて標と為す。其跡今に至り存す、之に依て八幡号を得る」、『群書』三輯帝王部『神皇正統紀』に「八幡と申す御名は御託宣に得道来不動法性。楽八正道垂権迹。皆苦の衆生の解脱を得。故に号す八幡大菩薩」等々の説がある。
日蓮聖人八幡大菩薩に関して『日眼女釈迦仏供養』『窪尼御前御返』等に述べられている。
『神御書』には「乃至第十四は仲哀天皇八幡御父也。第十五は神功皇后八幡御母也。第十六は応神天皇にして仲哀と神功の御子、今の八幡大菩薩也」(定八七八頁)、また『南条殿御返事』に「八幡大菩薩は日本第十六の王、本地は霊山浄土、法華経をとかせ給ひし教主釈尊なり」(定一一七三頁)と応神天皇の生れ変であり、本地釈尊であるとしている。
更に『神御書』に「此日本国は外道一人もなし。其上神は又第一天照太神・第二八幡大菩薩・第三は山王等三千餘社。晝夜に我国をまほり、朝夕に国家を見そなわし給ふ」(定八八二頁)と日本国の守護神として日本第二の神の座をしめ、『行者仏天守護鈔』に「されば法華経をたもつ人をば、釈迦多宝十万の諸仏、梵天帝釈日月四天竜神、日本守護の天照太神八幡大菩薩、人の眼をおしむがごとく、諸天の帝釈を敬ふがごとく、母の子を愛するが如く守りおぼしめし給べき、影の身にしたがふが如くなるべし。経文に云く、諸晝夜常に法の為の故に之を衛護したまうと」(定二四六頁)と法華経を持つ人を守護するとしている。
また『智妙房御返』に「世間の人々は八幡大菩薩をば阿弥陀の化身と申すぞ。それも中古の人々の御言なればさもや。但し大隅の正八幡の石の銘には、一方には八幡と申す二字、一方には昔霊鷲山に在て妙法華経を説て、今正宮の中に在て大菩薩を示現す等云云。月氏にては釈尊と顕はれて法華経を説き給ひ、日本国にしては八幡大菩薩と示現して正直の二字を願に立て給ふ。教主釈尊は住劫第九の減、人寿百歳の時、四月八日甲寅の日中、天竺に生れ給ひ、八十年を経て、二月十五日壬申の日御入滅なり給ふ。八幡大菩薩は日本国第一六代応神天皇、四月八日甲寅の日生れさせ給ひて、御年八十の二月十五日壬申に隠されせ給ふ。釈迦仏の化身と申す事はたれの人かあれそいをなすべき」(定一八二六頁)と述べ、釈尊と応神天皇と生誕と入滅の年の干支及び月日同じことから、釈迦仏の化身であるとし、釈尊はインドに法華経を説き、日本国では八幡大菩薩として示現して正直の二字を願にたてたのであり、八幡大菩薩を阿弥陀の化身をするのは誤りとしている。
本地を釈尊とする聖人の見解は、弥陀を本地とする説が一般的な中にあって、特異な存在である。
更に聖人は、八幡大菩薩は法華経の会座に列なり、法華経の弘通と法華経の行者守護とを誓ったにも拘らず仏との約束を果たさないことを叱責し、文永八年(一二七一)の竜口法難に際して有名な八幡言を行ったのである(『種種御振舞御書』定九六六頁)。
そして弘安三年(一二八〇)の鶴岡八宮の炎上も、法華経の行者守護の任務を怠ったためであると論じ、「神は所従、法華経は主君」とする聖人は、法華経の行者としての立場と信念に基づき、八幡に対し速かに氏子たる北条氏をはじめとする日本国内の謗法を治罰せよと諫暁したのである(『諫暁抄』定一八三四、三八、四四頁) 《『遺文辞典』歴史篇「八幡大菩薩」の項、『図説仏教語大辞典』「僧形八幡神」の項、『国史大辞典』一一巻「八幡宮」「八幡信仰」の項》

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