鶏冠井檀林
鶏冠井檀林
かいでだんりん
冠山檀林とも称す。
関西(京都)六檀林の一つ。
承応三年(一六五四)通明院日祥によって京都鶏冠井真経寺に開講。
所伝によれば真経寺は真言宗の古刹で真言寺と称していた。
日像(一二六九-一三四二)はこの同寺実賢と問答を行い、実賢ついに日像の化に伏して弟子となり、寺号を真経寺と改称したという。
通明院日祥は、鷹ケ峰檀林、南都遊学を経たのち、鷹ケ峰の請を受けて化主となる。
日像の旧跡、真経寺の荒廃していることを聞き、中興の志を起し、また学室の創設を願い、鷹ケ峰の講務を一心院日廷に委ねて真経寺に移り、復興に尽力す。
慶安三年(一六五〇)には鐘楼を造営して梵鐘を鋳る。
なお日祥は衆を集めて教えを授け、学徒の育成に意を注ぐ。
次第に日祥の名声洛の内外に伝わり、学徒もまた集まり、学室はなはだ狭隘となる。
京都妙顕寺第一四世僧那院日豊は浄財を募ってこれを扶け、真経寺の伽藍をその南方に移し、講堂・方丈・食堂・浴室・文句論場・玄義論場・玄能寮・大頭寮・中頭寮・玄頭寮・寮頭寮(柳の寮)・二老寮(松の寮)・三老寮(桜の寮)・四老寮(樫の寮)・五老寮(梅の寮)・所化寮(竹の寮)、その他西南北の三方門、作事小屋にいたるまで造築。
このとき承応三年(一六五四)、ここに鶏冠井山北真経寺学校(鶏冠井檀林)と称す。
かくして日祥在講一〇余年、時に紀州感応寺久遠院日述の遷化するや、後住として勧められるに及び、講務を中道院日春に譲り、感応寺第六世となる。
日春は当檀林『万代制法』を規定し、学級編成と用いるべき教材を明記し、加えて「鶏冠井学徒中之制法」一九条をも定め当檀林の運営上の基礎と成す。
日春松ケ崎檀林第一三世の化主となるに及んで、本源院日達その後を承け第三世の化主となる。
その後、元禄一五年(一七〇二)板頭秀達(のち当檀林五一世・遠光院日通)のとき奉行所に出願して経蔵を建立。
宝永四年(一七〇七)一二月一三日、京都妙顕寺第二四世南無院日妙より永聖跡を示す本尊を受け、また享保一一年(一七二六)二月一九日には、同じく妙顕寺第二八世観具院日諦より玄講主永代紫袈裟着用免許を祝す本尊を授与される。
当檀林の経過の中では、学徒数の減少をまねき、檀林運営においても苦況の時期がある。
天保一四年(一八四三)八月には、当檀林は学徒の不足で経済的にも経営的にも窮地に陥り、校舎の修復もできず、檀林運営もままならぬことを述べ、それ故、学徒の勧誘を諸末寺まで取計いのほどを京都妙覚寺に願い出たこともあった。
かくて世代を重ねるもの実に三六〇余人を数え、明治八年(一八七五)廃檀に至る。
《影山堯雄・関観朗・井上恵宏『諸檀林並親師法縁』》