鷹ケ峰
鷹ケ峰
たかがみね
京都市北区鷹ケ峰。
近世初期、本阿弥光悦はその一門および京都上層町衆と共に、この洛北鷹ケ峰の地に法華信仰を中核とする日蓮宗信者の集落を形成した。
即ち、元和元年(一六一五)本阿弥光悦は、徳川家康より東西二〇〇間、南北七町の京都郊外にあたる鷹ケ峰の地を拝領し、本阿弥一門とその家職につながる職業集団を引連れて移住した。
元和四年から寛永四年(一六二七)の間に作成されたとされる屋敷割を記した『鷹峰光悦町古図』によれば、五五軒の家並が記されている。
光悦の屋敷を中心に、養子光瑳・光悦の弟宗知・孫の光甫・更に光栄・光益らの本阿弥一族や、姻戚の豪商茶屋四郎次郎・絵師尾形宗伯・紙屋宗仁・筆屋妙喜・蒔絵師土田宗沢・蓮池常有らの屋敷があり、その住人はことごとく日蓮宗の信奉者であった。
日蓮宗信者の集落が形成されたその初期には、既に「いはい所」が建立され、この「いはい所」は光悦の晩年になると、本阿弥一門の帰依した京都本法寺から興寿院日達が招かれ、一族の菩提寺光悦寺となった。
また光悦の母妙秀の没後、その跡に妙秀寺が建てられ、その向いには「天下祈祷所」として知足庵が創建され、更に光悦の養子光瑳は寂照院日乾を招いて常照寺を開創した。
なお、この常照寺には、寛永四年「数百人の所化絶る事なし」といわれた関西六檀林の一つである鷹ケ峰檀林も開設された。
かくて鷹ケ峰には相次いで日蓮宗の寺院が四箇所も建立され、「信仰の志ある道信の者を集めて昼夜十二時声を絶さず、替る替る法花の首題を唱へ奉る」(『本阿弥行状記』)というように、四六時中唱題の声が絶えない日蓮宗の霊場と化した。
従来、本阿弥一門を中心に京都上層町衆の参加によって形成された鷹ケ峰集落は、その構成者の芸術的職業から芸術集団的性格をもつとされていたが、実はその反面、法華信仰を中核とする日蓮宗信者の集落、日蓮宗教義の信仰的帰結である現世の浄土、即ち寂光土を意味したとされている。
そして近世初期を代表する芸術家光悦自身も、寛永一四年に没するまでの約二〇年間、この鷹ケ峰で書画・蒔絵・彫刻等、その偉大な芸術創作の生活を送り数々の名作を生み出したが、その作品の背景に法華信仰という精神的世界があったことを忘れてはならないであろう。
しかし光悦の死後、天和元年(一六八一)の幕府の検地によって収公上地され、法華集落は消滅する。
元和元年に拝領してから六六年間の運命であった。
《藤井学「近世初期における京都町衆の法華信仰」『史林』四一―六、『京都の歴史』五巻》