本阿弥光悦
本阿弥光悦
ほんあみこうえつ
(一五五八-一六三七) 安土桃山・江戸初期の美術工芸家。
太虚庵・自得斎・徳友斎と号した。
光悦は家職に長じ当時一流の文化人と広く交わり多方面に才能を発揮した。
書においては松花堂昭乗、近衛信尹と共に寛永の三筆と称せられる能書家で、書風は肥痩の変化著しい豊満な字体で装飾的な構図をつくり、殊に俵屋宗達の下絵に書き散らした和歌巻や色紙、短冊等みごとな配字は卓抜した意匠感覚の所産である。
角倉素庵と共に出版した『嵯峨本』は『伊勢物語』『方丈記』『徒然草』『百人一首』『新古今和歌集』『謡本』などいずれも豪華な意匠をほどこしており、日本出版史上特筆すべきものである。
その他陶器では最高傑作「不二山」を始め幾多の作品があり、蒔絵にも斬新なデザイン力を発揮し、代表作として「舟橋蒔絵硯箱」があげられる。
今は光悦を法華信仰の方面より考察してみよう。
本阿弥家は刀剣の鑑定(めきき)磨礪(とぎ)、浄拭(ぬぐい)という、いわゆる「本阿弥の三事」を業として古来有名であった。
その遠祖妙本は足利尊氏に仕えて刀剣の奉行となり、また禁裡御用をも務めた家であった。
本阿弥家の日蓮宗帰依は、初祖妙本が京都六条に本国寺を開いた南北朝時代の宗門の名僧日静に帰依したことに始まると伝えられる。
しかしその宗門帰依が明確になるのは、室町中期、本阿弥中興といわれた六代本光(本阿弥右ヱ門三郎清信)と本法寺開山久遠成院日親との邂逅、そして結ばれた師檀関係によってである。
即ち本光は、将軍義教の刀の鞘走りをとどめることが出来なかったため、将軍の機嫌を損じて投獄された際、獄中で日親と出会い、日親に帰依し、法号を授けられて清信を本光と名づく。
これより一類の者剃髪して、皆、光の字を名のることになる。
かくして本法寺外護の檀那として、丹精を尽すことになる。
光悦の母、妙秀は本阿弥家の法華信仰の中心にあって、一門の賢母として九〇年の生涯を日蓮宗への帰依に捧げた女性である。
妙秀は優れた女性で、利発な、ある時は男勝りの毅然たる態度を持し、それでいて出しゃ張らず、夫に対して貞淑であり、富裕な家の主婦でありながら、身を持するに極めて質素であった。
何事に関しても深い見識をもって一族の者達を教導して子孫への教誡を与えている。
本阿弥家ではその頃すぐれた女性が相次いで現れた。
光悦の姉で宗家の光徳に嫁した妙光は、夫を扶けて本阿弥一族を督し、また二人の間の娘で、光瑳(光悦養子)の妻となった妙山は、家職の目利細工にもくわしく、智慧賢く、八○に及ぶまで一生のうち遂に嗔恚の態度を示さず、法華の首題毎日一万遍ずつ怠ることなくして生涯を終るまで白衣にて暮した。
晩年は自らの子・本通院日允の居る妙覚寺に住し、理想的な臨終正念を遂げた。
更に光甫の子で光山の妻になった妙親は、本法寺本院過去帳に「読経二万三千余部」と記されている。
一方、男性も篤信者が多く、宗家の光室は父光徳の三回忌に際し、中山法華経寺に現存する五重塔を、その菩提のために寄進する。
また光悦の弟の光益も家職に秀で、専ら茶湯をこととし、能書にて法華経を五〇部書写したと伝えられる。
『本阿弥行状記』の記述者である光甫も法華信仰の実践者で「恩分ふかき主君、父母、六親、法界の為に、便りなき貧僧を集め、三年の内に法花一万部を読誦しける」といわれた。
さて一族は篤信者が多くあったが、就中、母妙秀の薫陶を受けた光悦は、特に宗家光徳なき後は光室の後見役の地位にあり、一族の長老として重きをなしたことはいうを待たない。
『行状記』第五〇段には「家父光悦は、一生涯へつらひ候事、至って嫌ひの人にて、殊更に日蓮宗にて信心あつく候故、右ヶ条にも儒者の見識と違ひ候ところも数ヶ所これあり」とある如く、光悦は強盛な日蓮信仰を持っており、儒者林道者を批判する記事も見られる。
「私式の信心は、只国恩を忘れず、心の正直に悪魔のさゝぬ様にと信心仕候」といって、自らの信仰を極めて嫌虚に語るが、その信仰には熱烈なものがあり、現今、日蓮宗の寺院に残る多くの扁額と本法寺を始め妙蓮寺、本満寺等に残存する日蓮聖人御書の筆写がそれを証明する。
なお光悦の御遺文理解が高度の水準に達していたことは、選ばれて筆写した御書に照して疑いを容れる余地はない。
さて光悦は元和元年(一六一五)徳川家康により洛北鷹ケ峰の地を拝領され、洛中の山川通り今出川上ル西側の、いわゆる「本阿弥辻子」と呼ばれる所から、その一門と家職につながる人々を引連れて移住する。
東西二〇〇間、南北七町の山野に、光悦の新しい芸術村が拓かれ、本阿弥三事の家職と書画漆陶の共同製作が行われ、その偉大な芸術創作活動は続けられた。
しかもここに移住した人々は皆、法華の信者であり、法華一揆以来の伝統を受継ぐ京都町衆のメンバーであった。
即ち光悦は鷹ケ峰の芸術村の指導理念として法華信仰を団結の支柱としたのである。
それは皆法華圏を標榜する「娑婆即寂光土」の樹立という理想郷の実現にあった。
即ちこの地に四つの法華寺院が営まれ、鷹ケ峰は皆法華の浄域と考えられた。
一は常照寺で法花の談所、即ち鷹ケ峰檀林であり、二は光悦の母妙秀の菩提所である妙秀寺、三は本阿弥家先祖の菩提所、光悦寺であり、四は知足庵である。
これらの寺院では、あるいは天台六〇巻の講釈がなされ、毎日妙経一部を読誦し、五種の妙行が行われ、法華の首題が唱えられた。
しかも僧俗が一体となって唱題三昧が修されていた。
光悦は鷹ケ峰の芸術村を統率していく指導者の立場と、為政者の立場に共通する感懐を次のように述べている。
「何事も御役中、世のためになることを御心がけ遊さるべく候。
但し御一人の功になされんと思召候はゞ悪しく候。
(略)只造物の森羅万象を生育し給ふが如く何事もあらせたく候」と言い、ここには光悦の求める理想が何げなく語り出されている。
それは恰も法華経の薬草楡品の所説の如く、一味の雨が大地を潤し草木を滋茂せしむる如く「一雨等潤」の理想の国土を鷹ケ峰の地に実現したと見るべきである。
一味の雨が種々な性質をもった草木を繁茂せしめる如く、この鷹ケ峰の土壌にも様々な個性が育成された。
檀林を中心に育成された碩僧を始め、芸術村には光悦を中心に俵屋宗達、やがて彼らの血を享けた尾形光琳、乾山によって絢爛たる元禄文化が花開き、光琳の蒔絵、乾山の作陶の中に光悦の拓いた伝統が新たなる展開を見せた。
彼らが好んで草花を描いたこと、絵画や蒔絵に見る自由闊達な草花の意匠は、鷹ケ峰の山野に滋る四季の草花にヒントを得たと思われ、法華経薬草楡品の所説に通ずるものがある。
因みに光悦は法号を了寂院光悦日豫居士と称し、薬草楡品の「令衆悦豫」の文に依っている。
寛永一四年八○年の生涯を鷹ケ峰に終えたのである。
《宮崎英修『日蓮宗の人びと』、同『続・日蓮宗の人びと』、『日蓮辞典』『国史大辞典』一二巻「本阿弥光悦」の項》
(望月良晃)