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鷹ケ峰檀林

たかがみねだんりん #5326

鷹ケ峰檀林

たかがみねだんりん

京都市北区鷹ケ峰に所在した。
寛永四年(一六二七)寂照院日乾によって常照寺に開設された。
松ケ崎・求法院・東山・山科・鶏冠井檀林と共に関西六檀林の一つ。
元和元年(一六一五)本阿弥光悦は、徳川家康より東西二〇〇間、南北七町の鷹ケ峰の地を拝領し、本阿弥一門とその職につながる集団を引連れて移住した。
翌元和二年光悦の養子光瑳は、同所に「法華の鎮所」を建立し、鷹ケ峰に弘通していた寂照院日乾を招いてこれを捧げた。
日乾はその鎮所を寂光山常照寺とし、更に同檀林を創設することをはかり、本阿弥一族の外護を得て学舎を完成した。
鷹ケ峰檀林の創設である。
寛永四年日乾は心性院日遠の弟子智見院日暹を招いて開講。故に日乾を檀林開祖、日暹を開の初祖とする。
翌五年日暹は身延山第二六世として晋山したため、日暹の俗弟立正院日揚を招いて第三世化主とした。日揚は当時小西檀林第九世の化主で、日遠の弟子に当る。
日暹が在檀一年にして退檀したため、鷹ケ峰檀林の整備はこの日揚によってなされた。
ち日揚は講堂・学寮等を造営し、檀林諸規則を定めるなど、檀林の整備に努める一方、檀林学徒を山方(やまかた)と峰方(みねかた)の二つに分けて学問を奨励し、また自ら『法華玄義』『法華文句』を初めて義した。
故に日揚をもって玄堂の初祖という。
のち智見院日暹を峰方の祖とし、立正院日揚を山方の祖として仰いだ。
次いで第八世化主に通明院日祥(のち京都鶏冠井檀林開祖)、第一一世には寂遠院日通(のち飯高檀林化主、身延山第三〇世)、第一四世には勝光院日耀(のち水戸三昧堂檀林化主)を迎えて学徒の育に当った。
一方、元禄元年(一六八八)には大門を、同九年には経蔵を建立し、更に学寮を増設するなどその施設は拡大された。
しかし当檀林に迎えられる化主はことごとく関東檀林出身者によって占められた。
開祖日乾より明治六年(一八七三)二月入檀の第四八二世智章日鑑まで、その出身檀林を明記してある者一九三名の内訳は、飯高檀林一四三名、中村檀林三二名、鷹ケ峰檀林一一名、松ケ崎檀林三名、東山檀林二名、西谷檀林一名、山科檀林一名であるという。
鷹ケ峰檀林出身の化主は、わずか一一名にすぎず、関東の飯高・中村の両檀林出身者によって占められている。
加えて近世中期ともなると、関東・関西の大寺諸山は飯高・中村檀林の法類出身者によって独占され、関東檀林へ学ばずしては出世もおぼつかず、関東檀林へ転校する学徒も多かった。
従って鷹ケ峰檀林を含めた関西六檀林は、安永八年(一七七九)九月以来、団結して独自の会合(六檀会評)を設け、関東・関西の学級格差の是正など共通の問題を協議している。
しかしこのような関西六檀林の努力も、関東檀林法類による団の中枢を把握した構の中に埋没せざるをえなかった。
それでも近世後期の文政年鷹ケ峰檀林には、なお二〇〇有余の学徒を擁し育がなされていた。
《影山堯雄『諸檀林並親師法縁』、松村寿巖「関西諸檀林の形成と展開」(宮崎英修『近世法の展開』)》

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