山科檀林
山科檀林
やましなだんりん
法性院日勇(一六〇四-五〇)が四条隆術の室の外護により、京都宇治郡山科村に開設した宗門僧侶教育機関である。
日勇は字を天慧と号し、俗姓は平氏で西洞院参議時直の子と伝えられ、幼名は梅松麻呂であった。
身延二四世顕是院日要が梅松麻呂の父の西洞院時直と道契の深かったことから、梅松麻呂は幼少時、日要の弟子となり一五歳で得度して竹之坊に寓した。
また師の日要が京都妙伝寺に瑞世したあとをうけて妙伝寺一四世となった。
四条隆術の室(松平氏総の娘)は日要の徳を喜んで外護者となり、日要は宇治郡山科村に勝地を得て新たに檀林を築いたのである。
この四条隆術の室は妙恵院殿了光日耀大姉と号され、その号をとって了光山護国寺と称し、開創は寛永二〇年(一六四三)といわれる。
日勇の師日要は正東檀林の講主でもあった。
日勇が山科に檀林を開創した頃は、関東・京都各地におけるいわば檀林の増設期に相当し、京都にはほかに松ケ崎・東山・鷹ケ峯・大亀谷・鶏冠井(かいで)檀林などが次々と開設されている。
日勇は慶安三年(一六五〇)一二月二三日に示寂した。
日勇の弟子である寂遠院日通は山科檀林で『玄義』『文句』の講主となり、また妙玄寺主ともなり、のちには飯高檀林の化主を経て比企・池上両山の二〇世、身延三〇世となったのである。
身延三一世一円院日脱も山科檀林の講主であった。
ほかに京都華光寺日梵は山科檀林に学び、大津本要寺主を経て山科の化主となった。
尾張葉栗法蓮寺一三世日相も山科に学んで、当時の化主であった寂遠院日通の教育を受けた。
また寂遠院日通の弟子で、師命により山科の化主となった寂耀院日哲があり、同じく日通の弟子で山科に学んだ収玄院日祐は東山檀林の玄義の講主となった。
なお紀州養光寺六世日禅は山科檀林に遊学し、『玄義』の講主となった。