永聖跡
永聖跡
えいしょうせき
江戸時代に制度化された寺格制度の一つで、一代永聖跡と永代永聖跡の区別がある。
寛永一〇年(一六三三)に確立したとされる本末制度も次第に動揺がみられるに従い、補強する形で下級寺院の間に格式による差別の固定化と制度化が促進されることとなった。
最初は僧侶個人の僧階資格に与えられた法衣服(紫金欄)着用許可等の資格が、寺院自体の格式として公認されるようになったのである。
住職一代限りに認められる場合が一代永聖跡寺院であり、これに対して住職代々に亙って許可される場合、つまり、その寺の住職になれば紫金欄の着服が特権として認められるということで、永代永聖跡寺院という。
この制度は各本末組織における事情によって成立時期や制度の在り方等もまちまちであるが、時期的にはおおよそ享保期ごろからみえ、寛政期ごろには全国的な規模になっているようである。
内容的には一代ないし永代の永聖跡として認められる寺院では、他の寺院よりも一段格式の高い寺院として、寺院同士はもとより檀信徒に権威ある格式として顕示し名誉なものとして認識され、特権的性格をもち着座の上席権が認められていた。
この仕組みは明治期にも継承され、近代寺院組織の基本となる寺院等級制度にも利用されていった。
また永代永聖跡を認められる場合には、本寺に多額の金子上納が義務付けられて、住職交代のたびごとに上納の義務があった。
例えば平賀本土寺では金拾両、京都妙覚寺末では金三拾両等の事例がみられる。
高額の上納を引替えにしてでも、紫金欄の法衣着用を許されることは名誉ある特権であったからに外ならない。
檀信徒の方からより積極的に永聖跡の請求を働きかけたことも少なくないのである。
檀信徒にとってみれば高額な上納義務は結局自己負担となって現れるにしろ、共同体の中心的役割を担う檀那寺自体が、他の檀那寺よりも一段格の高い寺院として位置付けされることを意味し、共同体における共有財産としての名誉的存在として自己満足したからに外ならない。
なお、この制度は前述の如く本末は僧侶個人の資格に与えられ紫金欄法衣着用等許可であったのが、寺院自体に付属する格式として認められ定着するにつれ僧侶の僧階制度に影響してくる。
即ち僧侶個人の努力と精進の成果として認められた僧階、その表れである法衣制度の困乱である。
つまり、無資格の僧侶が永聖跡の住職となることによって紫金欄の法衣等を着用する事自体に矛盾が生じるのである。
このことに対して教団内部の一部には悪弊として僧階制度に伴う法衣服制の厳守が要望された、成果をあげた時期もあるが、全般的には永聖跡の制度的定着化は促進され、教団内部の位階秩序の一つとして何ごとにつけても優先されることとなった。
かくして永代永聖跡を頂点に一代永聖跡ならびに準永聖跡、更に平僧跡、無資格等々と等級格式が制定されることとなった。