宗本一体
宗本一体
しゅうほんいったい
昭和二六年(一九五一)第一三宗会において制定された祖山を中心とした宗門体制をいう。
戦後の祖山中心制度ともいうべき、宗門と祖山が一体になった新制度で、これを宗本一体制といった。
戦後、宗門の結束が弛緩し、宗教法人令の施行により一層その靭帯が弱化するという状況の中で昭和二七年の開宗七〇〇年が迫っていた。
肉倉内局は、昭和二五年の第一一宗会で設置された宗制特別委員会の答申を得て、宗門を強力なものにするためには、宗門の行政機構に信仰の血を通わすべきとして祖山中心の宗門体制の確立を提案した。
宗門興隆の根本は全宗門が祖山に結集し、宗祖御在世をそのままに金剛不壊の団結をする事にあるとしたのである。
提出原案はほとんど無修正で決定し、その内容は、まず身延山を祖山と公称、祖山の法灯を継承する者を法主、その法主を無答責の象徴的存在とし、全宗門の儀表として祖廟に常随給仕するものとした。
法主は新設された護法委員会の推戴によって就任する。
法主に次ぐ者として六人の長老が宗務所長によって選ばれ、法主の補佐役となり輸番で随時登山し、法主の意を体して教化に精進する。
次に法律的責任者として総監を置き、総監は日蓮宗と身延山久遠寺の主管者であって、宗教法人日蓮宗、同久遠寺の代表役員として宗務及寺務を総理し、法主及び長老に諮って宗門弘教の方策を樹てる。
更にその下に日蓮宗の宗務を担当する宗務司監、久遠寺の山務を鞅掌する山務司監が置かれ、両司監は総監と共に組織する院議によって宗務を決定する。
総監は護法委員会で選考した三人の候捕者について住職及び担任が選挙し、任期は四年、宗務、山務両司監は総監が任命し、任期は総監の任期によるとされている。
この宗本一体聡監制の施行と同時に、宗会制度が廃止され、宗務所長の互選による「参与」一七人と「参議」二人の一九人によって組織する「参与会」が立法機関として、宗制の審議、制定、予算決算の決定を行った。
宗務院は本院を身延に置き、従来の宗務院を東京事務所とした。
しかし実際の宗務は東京で行われた。
この宗制による法主は久遠寺住職深見日円、総監は久遠寺総務増田宣輪がそれぞれ付則によって就任し、宗務司監は飯沼龍遠・山務司監は江利山義顕、翌年(原弘道)が任命されている。
この体制は約三年間続いたが、昭和二九年四月の第六回臨時参与会を最後に廃止され管長制、宗会制の復活と共に宗本分離、三権分立の体制に返った。
宗本一体は「宗会議員に代えるに宗務所長を以てせよ」という宗会無用を主張する圧倒的な世論と、祖山中心の信仰を宗是とし広宣流布の目的を同じくする和合体という共通の意識の中から生れた体制ではあったが寺院、僧侶を主たる対象として接触する宗団と、直接檀信徒につながる身延山をいう根本的な相違が、人事や経理の面で円滑を欠いてこの体制の定着を阻害し、更には新興宗教の台頭と共にその財力や動員力を背景とする宗政介入への危倶が体制の崩壊を早めたともいえよう。
当時の宗報は「客観状勢は次第に変化し、このまま継続するときは、かえって宗局を混乱に導き、これに乗じて七百年の伝統さえ汚される虞れのある形勢が察知されたので(略)」と報じ第五回参与会は敢えて我々の決意を示すとして「その資金を新興教団の一派に依存していることは歴然たる事実であり(略)」と前置きして「第三勢力の介入を断乎拒否し、その傀儡となりて宗門を惑乱する者を徹底的に排撃する」と決議し、宗門当局も宗門護持の大局から、宗制審議委員会(第三臨時参与会で設置)の答申を尊重して宗本分離に踏み切ったとしている。
しかし、この宗本一体の体制の中で、開宗七〇〇年を慶讃し『昭和定本日蓮聖人遺文』が刊行され、立正大学の経済危機にテコ入れが行われ、宗教法人法施行に伴う法人格確立のための宗務処理が完了していることを特に付記する。