新興宗教
新興宗教
しんこうしゅうきょう
ここで新興宗教という場合は、日蓮系教団に限定される。
一般的に新興宗教団体は日蓮系のものが圧倒的に多いように理解されるが、必ずしもそうではなく、第二次世界大戦後に活発な動きをしめし、教団として比較的組織化が進んだものに、日蓮系のものが多いということである。
創価学会を別とすれば、その多くが霊友会からの分派独立教団であるというのも、その原因をなしている。
霊友会とは大正一四年(一九二五)即ち関東大震災の翌々年、久保角太郎・小谷喜美のコンビで先祖供養と法華経によるご利益信心とを結合した「教義」のもとに創設された集団である。
終戦までは「御聖訓を奉戴し、以て億々万劫よりの正法を受持、是を広く一切衆生に及ぼして自ら身命を惜しまず、能く諸々の幽冥を除き、衆生の闇を滅して、大乗の事業を確立するを以て誓願とす」というタテマエとしての使命を掲げていたが、終戦後はこれを「本会は法華経の大義を遵奉し、その奥義とするところの祖先供養を実践し、以て思想の善導、社会教化を為すを目的とする」と変えている。
いずれにせよ、その中心は先祖供養である。
この久保角太郎に影響を与えた人物に西田俊蔵がいた。
彼は第一次世界大戦中から法華信仰と万霊供養とを結合した信仰にたち「仏所護念」(法華経見宝塔品の「平等大慧、教菩薩法、仏所護念」による)こそ仏の心中に抱いていた真の教えを意味するとし、それこそ「先亡諸精霊の供養」にあるとした。
角太郎もこの西田の教えに共鳴して活動した時期があった。
「霊友」という会名が「自己の霊と三界の万霊」とが結ばれているというところから出ているのも、以上のようなことに関連する。
こうして霊友会の布教活動が始まり、組織はしだいに伸びてくるが、教団が大きく発展したのは昭和八年(一九三三)から昭和一〇年頃にかけてである。
それは日本の軍国主義がいちだんと色濃くなってきた時期にあたる。
と同時に政治権力による思想、宗教統制がきびしさを増し、社会不安が厳しい時期でもあった。
霊友会はそうした社会情勢への対処もあって、昭和一一年、当時日蓮宗から破門されていた村雲尼公(九条日浄)を総裁に迎えている、こうして戦後を迎えることになるが、その間、有力支部の分裂が起っている。
昭和一〇年に岡野正道が離れて横浜に孝道教団を創立、昭和一三年二月には、井戸清行が脱会して思親会を作り、翌三月に庭野日敬が長沼妙佼と共に分派して大日本立正交成会(現在の立正佼成会)を設立した。
これが霊友会の核分裂の第一期といえる。
第二期は昭和二四年から昭和二六年にかけての時期にあたる。
その事実を記すと、昭和二四年に博愛同志会教団(長沢銀次)が分派、翌年に宮本ミツが退会して妙智会を独立させた。
これと前後して関口嘉一が仏所護念会を斎藤千代が法師会を、菅原延台が徳行会を組織している。
昭和二六年になると、山口義一が正義会教団をたて、関西で重鎮とされていた佐原忠次郎が妙道会を、石倉保助が大慧会を創っている。
このような新教団の続出により、霊友会は日本屈指の大教団から「老舗」的教団へと変貌した。
しかし小谷喜美のシャーマン的存在はなお大教団としての勢力を維持し続けたが、昭和三九年(一九六四)南伊豆に弥勒山堂を建立し、これを「一天の戒壇」即ち昭和の戒壇などと称したように、この頃から元来の霊友会教義に、弥勒信仰を取り入れるようになった。
小谷喜美が昭和四六年にその生涯を終えるや、角太郎の息子である久保継成が二代目の会長に就任して今日にいたっている。
その間、会の機関誌『仏乃世界』を改題「霊友会の教えを新しい感覚で世に問う」というふれ込みで『いんなあとりっぷ』として一般に発売している。
『宗教年鑑』〈昭和五一年版〉(教団発表の会員数は、二五三万三〇〇〇余人)
さきに論じたように、霊友会から分かれた新興教団は数多いが、そのなかで群を抜いて組織を拡大したのが立正佼成会である。
この教団でも長沼妙佼がシャーマンとして大きな役割を果たしたことは否定できない。
その初期は霊友会式の先祖供養・懺悔滅罪の法華信仰を柱に、方位や姓名判断などをまじえた現世利益主義が教団の教えであったが、昭和三二年妙佼の死を境に翌年を「真実顕現」の年とし、組織と教義の再編、とくに教義の合理化が進められた。
その教義の合理化は根本仏教に視点をおいて進められた。
そのため、それまで説かれてきた法華経を受持し、修行する方法としての「妙・体・振(ふり)による菩薩道の実践」ということが「三大真理(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)を悟ることは、凡夫にとってはおいそれと出来ることではありません。
それには日々の修行と努力が必要です。
即ち妙(心)、体(姿)、振(行動)の三面に菩薩道を実行することです。
もっとつっこんでいうならば、八正道と六波羅蜜に精進することです」(庭野日敬『法華経の新しい解釈』)と説明されてくる。
と同時に「根本仏教と法華経とが表裏一体となって初めて、釈尊の説かれた仏の教えの真価が発揮されるのです」(立正佼成会教典翻訳委員会編『立正佼成会』)とも説かれる。
これと密接に関連して、本仏釈尊を本尊とする旨が宣言された。
昭和三九年に大聖堂が完成すると、会長庭野は諸宗教協力を主張し、対外活動に積極的な姿勢をとり始める。
翌年バチカン第二公会議に招かれた日敬はパウロ六世と会見、同年一一月新日本宗教団体連合会の理事長に就任、昭和四三年一月、京都で開かれた「平和についての日米諸宗教会議」に出席してから、宗教と平和のための世界会議(ルーベンスやシンガポールなどで開催された)の中心的存在として活躍しているのがそれである。
また国内的には「明るい社会づくり」運動や、靖国神社国家護持反対の運動を推進して今日に至っている(会員数は教団発表で、四五九万五〇〇〇余人『宗教年鑑』〈昭和五一年版〉)。
この立正佼成会に続く大教団として仏所護念教団がある。
この教団名は霊友会の教えであった「仏所護会」からとられたもので、祖先を供養し、自己の悪いくせを直すように心がければ諸仏の守護がえられる、これが「仏所護会」ということだと説いている(教団発表の信者数は一二九万三〇〇〇余人『宗教年鑑』〈昭和五一年版〉)。
ついでの有力教団に『妙智会教団』がある。
『宗教年鑑』〈昭和五一年版〉による信者数では思親会(信者数八万九〇〇〇余人)より約二万人弱少ないが、知名度は高いし、立正佼成会と密接な協力関係を保っているという特徴がある。
この教団も先祖供養を柱とするが「仏所護念」を強調するところは、立正佼成会より霊友会に近い面といえる。
たとえば「仏所護念とは、わたしたちのために、仏さまが長い間、護り念じてくださった、とうといご法をいただき、またこんどは、わたしたちのほうから仏さまを真心から念じ、護らせていただくということです。
そのためには先祖を真心から供養し、功徳をつまなくてはなりません」(『妙智のおしえ』)などと説かれるのがそれである。
これら諸教団に共通する布教方法の一つに法座活動のあることはよく知られている。
と同時に霊友会系教団の多くが、死亡した会員に独特の形式をもって戒名を授与するという点も類似している。
とくに立正佼成会などの大教団は、出版活動に力を入れ、佼成学術研究所の設立など外部から学者を集めた研究活動にも力点をおいている。
そうしたこととも関連して、教団が大型化すればするほど、日蓮主義離れがめだち、根本仏教への傾斜が強まる傾向が出ているというのが、戦後の一特徴といえる。
従って日蓮系教団というよりも、法華系教団といった方が、より適切だといえなくはない。
以上は主として霊友会系の教団について紹介してきたが、この他にも仏立講系の在家日蓮宗浄風会や日蓮主義仏立講などもある。
《『日本近代と日蓮主義』(『講座日蓮』四)、中濃教篤『庭野日敬』、新宗連調査室編『戦後宗教回想録』、西山茂『近現代の法華運動と在家教団』(春秋社『シリーズ日蓮』四)、『新宗教事典』(弘文堂)》
(中濃教篤)