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海外布教

かいがいふきょう #3971

海外布教

かいがいふきょう

日蓮宗の国外布教は六老日持(一二五〇―?)を鼻祖とする。
ち永仁二年(一二九四)日蓮聖人第一三回忌正当忌辰の一〇月一三日祖廟に詣で海外への弘教を発誓し、その大志を「後五百歳の今日に生れ、本化の菩薩出現し給ひて、一閻浮提に此法を弘むべしとの釈尊の豫證は経文に在て皎として分明なり。 我聖師は上行菩薩の後身として別頭の妙法を唱導し給えり、勧持品二十行の偈文、恰も符節を合せたるが如し、広く萬に流布せんことを奚ぞ違わん。 日本六十餘州と雖も法兄諸法弟各々其人あり、必ずしも我の一介を須いざるなり。 (略)我是より遙かに海を超え遠く異へ渡りて、南無妙法蓮華経の仏音を以て広く異邦の民を導き救はんと発願せり、仮令、未見未聞の前程際涯を知らざる海上に出でて、若し颶風にも遭ひ身をば魚腹に葬るありとも何ぞ厭はん、是れわが至願なり」と宣言して翌永仁三年正月元旦松野を出発したことに始まる。
その後足利代明応年(一四九二-一五〇一)京都本圀寺第一一世大聖院日堯(一四六二-一五〇六)が唐土弘通を志したが果さなかった。
近代に入り同寺第四八世旭日苗(一八三三-一九一六)は海外宣を志し、明治二四年(一八九一)韓へ開準備のため赴いている。
明治二八年二月管長小林日董の特使として佐野前励が渡韓し、法華経、立正安国論及び香炉、花瓶等を国王に献じ、僧侶の城内入城の禁を解かせ鮮僧一五名を連れて帰した。
明治三二年一一月宗門は「旭日苗等発起に係る海外宣教会に関する諭告」を発して日苗の主宰する海外宣教会を公認した。 そのなかに「皆帰妙法の祖訓に遵い異域の群生に至るまで洽く醍醐の法雨に浴せしめんとするの精神に出でしものにして既に韓国釜山、仁川を始め京城、元山の各處に教会場を設立し、其績甚だ観るべきものあり(略)各寺院に於ても該会の趣旨を翼賛し精々其檀信を奨励し浄財を喜捨致様斡旋尽力せられんことを右諭達す」とあって海外布教の意欲旺盛で、日清戦後すでに韓には諸所に開拠点が設立されていたことが分る。
更に京都本圀寺に現存する日苗の本尊(明治四三年庚戊五月五日)には「入竺霊鷲山先登第一之導師清韓宣教満州西比利亜最初行脚雲衲日苗」と自署されているので明治年間に海外布教の足跡は韓国だけでなく満州及び中国、シべリア更には印度にまで印され、かつまたその実績からも日苗を近代の本宗における国外布教の先駆者とするのは当然である。 なお当は日苗と志を同じくした人々が数多く厥起した代でもあった。
台湾、樺太、ハワイ等への開も明治末期であり、大正代に入ると北米、マレイ次いでブラジルへ及ぶに至った。
口サンゼルスに会堂が建立されたり(大正三年=一九一四)日苗が前日蓮宗管長として渡米するなど、海外布教も計画的組織的に進展し、宗制(法規)も整備され、「開教地布教規則」(大正一二年)「海外布教規則」(大正一二年)として充実した。

布教とは朝鮮、台湾、樺太、満州での布教をさし、各地に開教司監がおかれた。
開教司監は大僧都以上の僧侶で、布教経験豊かなものを管長が特選で任命した。
また開地の寺院住職ならびに布教師は准講師以上の僧侶から管長が選任し、開教司監の指定した区域の布教に当った。
なお開教司監布教師の俸給手当は宗費から支給された。

海外布教の資格については、その施行規程の中に、日蓮宗大学本科卒業以上、または管長がこれと同等以上の実力があると認めたもの、外国語の素養あるもの、布教費を自弁しうるもの、身体強健にして品行方正なるもの、となっている。
また海外における布教方法は説教、演説、法話、講義、文書とし、一定の布教所または弘通所において布教することが義務づけられている。
また海外における布教を監督するために布教監督も設けられた。
これが昭和代に入ると開地の中に「但し当分の内鹿児島、宮崎、沖縄の三県を開地に加う」の一項が加えられ、この地域を開地と見なして、宗門が本腰をいれて布教に努め、開教地布教ならびに海外布教は大いに進展し広宣流布の意気は盛りあがったが、戦争、そして敗戦と海外における宗門の布教拠点は惜しくも壊滅状態に追いこまれてしまった。 この敗戦は海外布教に対する宗門の施策を困難にした。
わずかに北米を中心とするカナダ、ブラジルなどで開師の自力による復興が行われ、宗門からの援助が強く要請される中で戦後の海外布教は息づき始めた。
現在の宗制には「開教庁規程」が設けられ、日蓮宗何々開教庁と呼ばれ外国での布教を行っている。
この開庁には開総長が一名置かれ、管内の状況において布教方法や規約を決め、宗務総長の承認を受けて施行する。
ここには宗務総長が任命した開教布教師が派遣され、開教区ごとに布教師会を組織し、相互の研究や連絡を図ることになっている。
この開庁の運動を更に盛りあげるために、宗務院には「開教布教対策委員会」が設けられ、外部には有志によって構成された「海外布教後援会」があり、活発な支援が行われている。
戦後三〇年にして七〇〇遠忌に本確的な海外布教が展開た。
昭和五〇年(一九七五)には沖縄布教振興委員会が宗務院に置かれた。
ここでは布教拠点の拡充、布教師の派遣、資金の調達などが積極的に行われているが、昭和五二年四月には、全国からおよそ六〇〇〇名の寺院檀信徒が参加して戦歿者の三三回忌を盛りあげ、沖縄布教に大きな貢献をしている。
敗戦によって朝鮮、韓、中大陸、樺太、台湾、東南アジアにおける海外布教の拠点喪失は止むを得ないが、大正一五年法規に示されている「海外布教は外において、日本人ならびに外人のために本宗の義を宣布するを目的とする」精神は変わりなく、北米、ブラジル、ハワイに再び活発化し、沖縄の拠点も拡大強化されつつある。

〔韓〕京城を中心として日苗の命により明治三〇年護圀寺が建立せられ、加藤清亮が専心努力し、後に渋谷文英、逸見通漢、都守泰一、黒田恵海、寺沢日晃、小原正泰達が続き、釜山には妙覚寺を高佐顕照が、そして別に横山恵正が布教所を、元山には頂妙寺を中山日運が開き中山貞旭が継ぎ、平壊には早瀬幸廉が照國寺を開き早瀬重慶が継ぎ、鎮海には旭寛成が妙法寺を、仁川には黒田恵海が妙覚寺を建て黒田秀明が継ぎ、鎮南浦には尾崎日新が最勝寺の基を開き小竹行邃が継ぎ、郡山には原黙松が安国寺を、そして伊東海寿が発展させ、大邱には志田慈鳳及び後の市田元弘によって光圀寺が出来、木浦には統照寺が清水玄正これを受継ぐ、小原正泰により興隆し、光州には佐藤玄静に始まり秦観行により東光寺が、裡里には大橋即浄により栄圀寺が建立され、大田には塩沢玄海により日光寺が設立され、渡部智善・同正康が継承し、沙里院は石渡日毅が布教を始め大川文静が継ぎ、兼二浦は八木嶺賢が始め内田慈顕が継ぎ、延安には深川文明があり、水源には北村大成・岩井弁海があり、定州に武田行叔があり、新義州をも併設したが新義州は岡村清宏が継ぎ、馬山には岡本潮照があって寺村正憲が継ぎ、城津には渡部智善が本妙寺を開設し藤田文孝が継ぎ、羅南には三木龍選があり岡田栄源及び山田宏遠が継ぎ、永登浦には柳原学玄があり山上玄省が継ぎ、栄山浦は佐藤玄静が兼務していたが内山嶺教が継ぎ、その後開城に西島文明続いて原田智光があり、天安に寺沢日晃、宣州に稲垣友俊、江界を黒田恵海が兼務し、中江鎮に今井光研・首藤常豊があり、興南に井上竜将、雄基に林孝運、清津に藤原智良があり田中日常が継ぎ、会寧に浜田慈精、別に福島竜山があり、羅清に柾木繁徳、統営に中村正真、浦項に田中智岳、甘浦に藤内大耀、全州に山脇亮雅、海州に小野田麗穣、順天に池田寿良、鉄原に市原大仙、京城に楠田義薩らが布教所を開設し、慶北安東邑栗生洞岡元錬清が安東布教所を開設した。
監督部に奉安の本尊は、戦後小原正泰により宗務院に奉持され、現在谷中学寮に勧請され、鬼子母神尊像は宗務院に安置されている。
区一覧表参照のこと。

〔台湾〕明治二九年六月、渡辺英明(日雄)、佐野是秀(日)が台湾駐在布教師に任ぜられ、渡辺が台北中心、佐野が新竹に布教したのに始まる。
同三五年渡辺が帰任し、赤井日蘇が後任として駐在したが五年後退任し、佐野が台北に移り着任、同四四年敷地購入、庫裡新築、大正六年本堂を建立し南海山法華寺を設立した。
次いで基隆、嘉義、高雄、台南に布教所を開設、本島人の化に意欲を燃やしたが、大正一五年台北で遷化した。
後任として岡田栄源(日恒)が赴任し、台中、新竹、宜蘭、花連港に布教所開設、月刊誌『立正教報』を発行成果見るべきものがあったが、昭和一八年三月、本国より帰任の際、高干穂丸で遭難、他を救い自らは殉教した。
同年九月沖原龍進が赴任、大和丸で渡航途次またかや遭難したが無着任、終戦まで伝道しその処に当った。
区一覧表参照のこと。

〔樺太〕明治三九年高田円譲、寺沢英海(日晃)両師がそれぞれ単独、が開の先駆として、自由に行った布教に始まる寺沢英海苦心の開教の成果は大泊と豊原の両所に宗門最初の布教所開設を成し遂げた。渡樺二年、両所における法華道場(布教所)開設は、のちの昭和二〇年に至るまでの樺太開の濫觴であった。
大正七年八月発行の『日蓮宗大観』に載る名簿には、大泊(寺沢英海)、楠渓(中井泰山)、豊原(岡部乾浄)、真岡(島田泰秀)、泊居(寺沢兼務)、他三箇所、合わせ八布教所の名を載せるように各地に拠点が定着し、別表の如く拡張した。
留多加、野田寒、久春内の布教所が発展合流して豊原法華寺となり、小山鳳伝に至り、平野龍享の協力を得て監督部は充実し、林業、魚業、砿業の隆盛、人口増が都市形成の背景もあって、樺太全土にその布教活動は活発を極めた。
惜むらくは敗戦の結果、ソ連の占領になり先師の築いた心血の成果は総てを失うに至った。
昭和六年、日蓮聖人六五〇遠忌留念の報恩事業として豊原市旭ヶ丘に海外伝道の鼻祖六老僧・日持の大銅像が建立された。
今その存否はさだかでない。
区一覧表参照のこと。
【補記】
従来の団史記述上、樺太開の歩みについては本格的論述がなかった。昭和六二年三月、日蓮宗北海道大鑑刊行会は『日蓮宗北海道大鑑』を公刊し、中に岡元錬城稿「樺太の日蓮宗」が収録された。全六章からなるこの論考中には第四章・樺太開教布教師・寺沢英海(自伝『明暗の五十年』)など『日蓮宗典』初版の内容の修正点もあり、「樺太開」に関する基礎的文献である。

〔満州〕明治四〇年に静岡市蓮永寺第三五世・小泉日慈(一八四一-一九二三=後に身延山久遠寺第七九世・日蓮宗第一九代管長)が大連に日蓮宗布教所(後の大蓮寺)を開いたのが始まりである。
以降蓮永寺の歴代である丹沢日京・平寿本が代々開教司監として任命され、蓮永寺に開教司監部が置かれた。
後に開監督及び開監督部と改称され現地に置かれるようになり、大連の大蓮寺住職である松村日量がこれを引継いだ。
更に昭和一五年ころから、長春の王寺住職谷口慈祥が引継ぎ、終戦に至るまでその任に当った。
布教教線の地は大連・旅順・安東・鞍山・奉・鄭屯・長春(新京)・ハルピン・佳木斯・チチハル・四平街・延吉・平安鎮・牡丹江・営口・本渓湖等であった。
以上の地区以外にも北京・上海・蘇州等があげられる。
『佛大年鑑』(明治百年記念・昭和四四年版)には、寺三五、布教所一三、別院三、党一を数えている。
しかしこれらの寺も直ちに寺となったものではなく、開所・布教所の線の実力がつくと共に寺号の公称がなされていったのである。
別表のこれらの寺・布教所に従事する海外布教師は、年に一度、大連・奉天・長春等に集まって総会を開き、開教に関する勉強や情報を交換し、布教の方向を定める話合いがなされた。
その際、日蓮宗当局からも開資金や資料が与えられた。
満州における布教拠点の中心は大蓮寺で、同寺は明治四〇年の日蓮宗清国大連布教所から、大正四年に庫裡、更に昭和八年には一〇間四面鉄筋造りの本堂を完成させ、海外布教の根本道場として本山の格づけがなされた。
昭和六年、満州に伴い、開拓団や一般人が続々と渡満した。 従って日本語で日常生活が出来る様になったと同に、布教の対象も自然に日本人を中心とするものであった。
満州は地的の関係もあり、九州から渡満した人が多く、清正公信仰の影響もあってか、祈祷による修法布教が重きをなしていた。
更に言説布教・読経布教・文書伝道も盛んであった。
また寺院が一種の社交場となり、いつも信者堂が溢れ活気に満ちていた。
一方、満州を本拠地とする関東軍との関係は、戦死者慰霊祭等の折に日蓮宗に限らず各宗から出仕する程で、直接に関係はなかった。 しかし従軍僧として関東軍へ参加した者もいたが、軍属として軍人の慰撫・慰霊をするのが目的で、軍人ではなく、大体は将校待遇であった。
終戦後の昭和二一年から引揚げが始まったが、檀名簿等公私一切のものを置いたまま帰せざるを得なかった。
区一覧表参照のこと。

〔中大陸〕明治二八年の終戦後、中大陸への宣は満州から蒙彊、北・中・南支全土に及んだ。
蒙彊は開監督部を厚和に置き西岡大元が初代監督に就任したが奉に在任していたので福島円明が代行し、本良定昌が引揚げた後、監督部は張口に移り、高鍋日統が監督に就任した。
北支は北京の身延山北京別院に監督部を設け、北村大成、難波智秀が監督に就任し別記各地に団を拡大した。
中支は上海の本圀寺別院に監督部を置き、旭日苗を初代として杉山仁雅、末藤弁、都守泰一と歴代の監督が別記中支の各地へ線の拡張と指導に当った。
南支は広東に身延山広東別院を開き、佐々木勝運以来佐藤恵俊、川辺教、栗原顕が活躍し、特別任務を帯びた石川泰全、三各会祥らが南支活動の拠点とした。
汕頭にも別院を開き小佐野順光、栗原顕、石川泰全が布教に当った。
港は、昭和一七年、攻略部隊の思想戦班に所属した三谷会祥の斡旋で土地建物の提供を受け、開進捗し、佐藤恵俊が陣を拡大しつつあったが終戦で烏有に帰した。
区一覧表参照のこと。

〔東南アジア〕大正初年からマレー半島、シンガポールを中心とし、現地信徒の協力を得てマレー半島イツポー市外に法華経寺、シンガポールに妙法寺を建立、東南アジアの各地に線を拡張して南方開は前途洋々たるものであった。
マレー半島の開は「馬来半島ぺラ州イツポー市外二哩なるタンモンと称する石山に鐘乳洞あり其下に温泉湧き出で居る勝地に、大正二年九月一二日馬場禎誠、原口たつ等イツポー市邦人の援助によりて本宗の寺を開基し私に嚴龍山法華経寺と号せり、大正四年九月岡度留学の途上此霊洞に詣し石壁に玄題を大書し後、同地方の邦人石工をして縷刻せしめ今巖として在り(略)是れ実に南洋馬来最初発軫の法華道場」(『宗報』六七号、原智耀報告・大正四年一一月より主任)と開を報じた。
昭和九年一二月須賀勝玄が海外布教師の任命を受け赴任して布教を推進し「信徒総数はイツポー、コーランポ、ピナン、タイピン、カメロン、トレンシン等に於けるもの合して九四戸二九〇名」(『宗報』二二八号・須賀勝玄報告)と勢の伸張はマレー半島の各地に拡がった。
第二次世界大戦に通訳従軍し後任に岡邃が同一七年七月任命を受けてイツポーに赴任したが、同一九年七月二二日戦雲漂う物情騒然の時、イツポー郊外タンモンの洞窟の中で「南方布教の足跡」「印度佛跡巡礼記」を残し、開教の先駆として殉教の生涯を閉じた。
シンガポールの開は、大正初年前田豊良がカークタレス三に布教所を開設し、岡野潮醇(昭和二年五月任命・土地購入資金勧募)、遠藤哲生(同五年八月任命・同時に岡野潮醇退任帰国・昭和九年遠藤哲生ウイルキータレス一七に土地を購入師子王山妙法寺建設敷地とした)、岡野潮醇(一一年五月再任・同時に遠藤哲生退任帰国・昭和九年一〇月より三年間布教助員田渕即壽在留)、岡野潮醇は鉄筋本堂を建立し「昭和一二年一〇月起工し九ヶ月をもって落成、六月二二日イツポーより須賀師の来援を受けて盛大なる移転落成式を挙行」(『日蓮宗報』四五号)と報じた。
大戦下在住日本人と共にインドに抑留され終戦後病院船で帰した。
同二七年『平和條約・第五章第一四条2iii』の規定に基づいて日蓮宗妙法寺の「土地(三二〇坪)建物(二階建三七坪)」が同四四年六月二四日返還された。
この財産は現地情により曹洞宗西有寺返還財産と共に、在留日本人に適応した新しいテンプルホール建設と日本人地存続のため使用されている。

○開区一覧表
「朝鮮(韓)開区」
朝鮮開教司監(監督)部=旭日苗、加藤清亮、渋谷文英、逸見通漢、都守泰一、黒田恵海、寺沢日晃、北村大成、小原正泰。
護圀寺(京幾道京城府旭町三丁目)。
妙覚寺(京畿道仁川府旭町)黒田恵海・黒田秀明。
京城布教所(京畿道京城府西四軒町)楠田義薩。
開城布教所(京畿道開城市西本町)西島文明・原田智光。
水原布教所(京畿道水原郡水原邑梅山町)北村大成・岩井弁海。
永登浦布教所(京畿道始興郡永登浦町四四)柳原学玄・山上玄省。
日光寺(忠清南道大田府春日町)塩沢玄海・渡部智・渡部正康。
布教所(忠清南道安郡安区旭町)寺沢日晃。
寺(平安南道平壌府水玉里一八六)早瀬廉・早瀬重慶。
最勝寺(平安南道鎮南浦府明峡町一)尾崎日新・小竹行邃。
新議州布教所(平安北道新義州府桜町)武田行叔・岡村清宏。
宣州布教所(平安北道宣州郡宣州邑城外洞)稲垣友俊。
江界布教所(平安北道江界郡江界)黒田恵海。
中江鎮布教所(平安北道中江鎮)今井光研・首藤常豊。
頂妙寺(咸鏡南道元山府旭町二丁目)中山日運・中山貞旭。
日妙寺(咸鏡南道咸興府知楽町四六)石渡良
興南布教所(咸鏡南道興南邑荷徳里二二)井上龍將。
本妙寺(咸鏡北道城津郡城津邑本町)渡部智・藤田文
雄基布教所(咸鏡北道雄基邑雄基洞)林運。
日蓮宗布教所(咸鏡北道会寧郡会寧邑五洞)浜田慈精。
清津布教所(咸鏡北道清津府祝町一五)藤原智良・田中日常・羅南布教所(咸鏡北道鏡城郡羅南邑初瀬町)三木龍選・岡田栄源・山田宏遠。
羅津布教所(咸鏡北道羅津府金剛通三二)柾木繁徳。
日蓮宗布教所(咸鏡北道会寧郡会寧邑一洞一ノ一八)福島龍山。
妙覚寺(慶尚南道釜山府西町)高佐顕照。
日蓮宗教会(慶尚南道釜山府西町一丁目)横山恵正。
妙法寺(慶尚南道昌原郡鎮海邑寺町)旭寛成。
馬山布教所(慶尚南道馬山府通町四丁目)岡本潮照・寺村正憲。
日蓮宗布教所(慶尚南道統営郡統営邑朝日町)中村正真。
光圀寺(慶尚北道大邱府八雲町)志田慈鳳・市田元弘。
浦項布教所(慶尚北道迎日郡浦項栄町六八三)田中智岳。
甘浦教会所(慶尚北道慶州郡陽北面甘浦邑)藤田大耀。
安東布教所(慶尚北道安東邑栗生洞)岡元錬清。
寺(全羅北道群山府浅山町二)原黙松・伊東海壽。
栄圀寺(全羅北道益山郡裡里邑日出町)・大橋浄。
日蓮宗布教所(全羅北道全州府大正町二ノ八)山脇亮雅。
統照寺(全羅南道木浦府竹洞)清水玄正・小原正泰。
栄光寺(全維南道光州郡光州邑旭町八六)佐藤玄静・泰観行。
栄山浦布教所(全羅南道羅州郡栄山浦邑栄山里)佐厳玄静・内山嶺教・順天布教所(全羅南道順郡順面幸町)池田寿良。
沙里院布教所(全羅南道鳳山郡沙里院北里三九)石渡日毅・大川文静。
海州布教所(全羅南道海州郡海州邑仲町)小野田麗穣。
延安布教所(全羅南道延田郡延安面)深川文明。
兼二浦布教所(全羅南道黄州郡兼二浦明治村)八木嶺賢・内田慈顕。
鉄原布教所(江原道鉄原郡鉄原邑宮田里)市原大仙。

「台湾開区」
台湾開監督部=渡辺英明、赤井日蘇、佐野是秀、岡田栄源、沖原龍進。
法華寺(台北市若竹町)。
蓮光寺(基隆市義重町六)堀部行省。
妙経寺(台南市昭和町四丁目)森智秀。
嘉義布教所(嘉義市宮前町六ノ七一)小笹海康・三田村文経。
高雄布教所(高雄市寿町五)山田霅清。
台中布教所・立正寺(台中市栄町二ノ二二)神谷宏修。
台中打狗布教所・村上円要。
台中顕本教会・松鵜妙明。
宣蘭布教所(宣蘭市室蘭街良門九)榊原慈顕。
新竹布教所・松田栄張。
花蓮港布教所(花蓮港庁花蓮港街稲住二二六)
妙経寺(台南市草仔寮街)丸井智選。

「樺太開区」
樺太開監督部=増田鳳明、武智文碩、北村大成、小山鳳伝。
法華寺(豊原市豊原町東一条南一〇丁目)。
法華寺(大泊郡大泊町本町西二条北一)寺沢英海・川上円暁。
法華寺(真岡郡真岡村山下町五)島田泰秀・江崎鳳吟。
蓮華寺(泊居町松力枝町二)寺沢英海(兼)・武智文碩。
妙光寺(本斗都本斗村南浜通)久津明宣。
大法寺(敷郡敷村千草通南二丁目)大島智真。
妙法寺(栄浜郡落合町東通)望月是順。
立正寺(元泊郡知取町幸町四丁目)桜田順学。
妙法寺(名好郡恵須取町南一条通)平野竜享(日將)。
楠渓布教所・法華寺(大泊郡大泊町楠渓町)中井泰山・野沢玄真。
日蓮宗布教所(真岡郡清水村二股三二)石沢寛栄。
内幌布教研(本斗郡内幌村内幌東三条四ノ七)鹿内栄舜。
留多加布教所(留多加郡留多加町弥生町北七)望月是順。
野田布教所(野田郡野田町西一条二)木村義詮。
久春内布教所・妙光寺(久春内郡久春内村)露崎啓静。
日蓮宗布教所(久春内郡三浜村珍内本町)杉浦祥運。
日蓮宗布教所(元泊郡元泊港)大島智真。
名好布教所(名好郡名好村名好宇原)打越啓佑。
西柵丹布教所(名好郡名好村西柵丹九一)酒井智亨。
日蓮宗布教所(敷郡敷町上敷本通)飯田海静。
小田寒布教所(栄浜郡小田寒村)征木繁徳。

「中大陸(満州、蒙疆、北・中・南支)」
開教司監部=小泉日慈、丹沢日京、平間寿本、宇野成、松村日量、松村寿顕。
大蓮寺(大連市春日町)。
日清寺(旅順口旭町三丁目)峰松文成・辻要貞。
大法寺(大連市沙河口霞町)梅本鳳泰。
新甘井子布教所(大連市新甘井子)井上真翁。
法華寺(安東市六番通三丁目)川瀬潮順・諸岡要忍。
蓮華寺(奉市大和区宇治町七)花水忠・花木貫雲。
満昌寺(奉市大和区稲葉町)市川隆
鬼子母神堂正中山別院(奉市大和区藤浪町)原田守啓(智光)。
立正寺(撫順市永安大街)和田泰行。
経王寺(新京市吉野区曙町二丁目)後に開監督部・谷口慈祥。
妙法寺(鉄嶺松島町七ノ九)青山慈啓・酒井文経。
本溪寺(本渓県本渓湖街旭町一三二)川口鳳賢。
妙蓮寺(吉林省吉林市東大灘)新石慈譲。
木敬寺(錦州市錦華区白雲公園内)前田豊良。
寺(竜江者斉々哈爾斉廟街)大年智瑩。
北安寺(竜江省北安県北安鎮日満区)藤川寿桓。
妙遠寺(竜江省洮南県城内泰昌街)遠藤順正。
大照寺(奉省遼源泉鄭屯新市街)館岡寿岳。
日蓮宗布教所(奉市青葉町六六)佐藤恵俊。
満州霊廟・西岡大元。
法華寺(鞍山市北六条二八)筧義章。
鞍山寺(鞍山市北三条一二)佐藤恵俊。
四平街日蓮宗布教所(四平街市南五条通二五)中村智開。
法華経寺(姶爾浜市買売街五九)梅本正雄。
図門寺日蓮宗布教所(島省図門市)森安長栄。
延吉布教所(島省延吉市第四区)田中政春。
日蓮宗布教所(吉林省敦化県城内東門外)橋本竜英。
公生嶺布教所(吉林省公生嶺柳町)中村正立。
日蓮宗布教所(錦州省新照阜新街城内)馬場泰運。
日蓮宗布教所(三江省佳木斯市向陽大街)木智明・村上寛立。
日蓮宗布教所(牡丹江省牡丹江市金街一七)國松慈明。
日蓮宗布教所(通化省通化城南門外雲開)浜田慈海。
ハイラル布教所(竜口省ハイラル市)。
竜井布教所(島省竜井)。
本仏寺(熱河省承徳陜西栄街南山城)井上義澄。
身延山北京別院(北京市南池壬普渡寺前巷)北支開監督部・北村大成・難波智秀。
本仏寺(北京市朝陽門内吉兆胡同)。
妙法寺(津市日本租界春日町)内田泰秀。
法華寺(保定市城内師府胡同一二号)豊田貫旭。
四海寺(山海関城内九条東胡同)加藤恵秀。
瑞竜寺(石荘市廠子港三号)北村大成(兼)。
法華寺(唐山市西新街礼二条)浜田恵海。
運長寺(青島市武宣路四八号)篠田泰学・大橋玄妙。
法華寺(済南市商埠地経三六馬路緯九路)服部光有。
(兼)妙法寺(蒙古察姶爾省張口)本良定昌(一五年)・掛橋泰寿。
蒙疆開監督部・厚和・初代西岡大元。
東奉の為福島円妙代行・高鍋日統。
ウラヂオストック・津・内田泰秀。
(兼)竜泉寺(蒙疆包頭市)日置依法。
(兼)円妙寺(大同市蘭池街二三号)福島円明。
満州開拓村駐在布教師・田代寛諦。
本圀寺別院(上海市巨浦路四三九号)中支開監督部・旭日苗、杉山仁雅、末藤弁、都守泰一。
身延会館(上海市花園街)外山寛郎。
武漢寺(漢口市府東二路一九)中西大
南京寺(南京市大平路)小野瀬大勝。
清正寺(無錫県城区中二所寺四号)森明禎。
蘇州寺(蘇州市)高比良弁秀。
日蓮宗布教所(楊州)外崎寿栄。
日華寺(撫湖吉祥街)吉川義研。
日蓮宗石灰溶布教所(石灰溶)山野慈碩。
妙法寺(徐州市懸涜街)望月堯哲。
慈恵布教所(杭州市学士路)服部恵宣。
上海本圀寺別院内・前刀妙心・従軍僧布教師)・灘上恵、加藤錬明、遠藤寛格。
身延山広東別院(広東省広州市辺路九九)佐々木膳運。
佐藤恵俊、川辺教、栗原顕
身延山汕頭別院・小佐野順光、栗原顕、石川泰全。
妙法寺(海州新浦鎮新市鎮十二保七牌)益山行仲。
身延行仲。
身延山香港別院・佐藤恵俊、上野円。
、特別任務を帯びて大陸にいた布教師には内藤潮邦、三谷会祥、西郷正道、山崎海弘、石川泰全らがある。

〔ハワイ〕明治三二年(一八九九)岐阜市法華寺前住職故高木行運が、宗命により渡島、ホノルル市千尾正信宅で日蓮宗の信徒を集め、開の第一声をあげた。 爾来三ヵ年ハワイの各島々を巡、明治三五年カパパラ日蓮宗教会を設立し、ここを根拠として各島を巡錫した。
八年の後、布目潮清を後任としてホノルルに進出し、リリハ街に仮布教所。
日蓮宗ハワイ布教院を設け、大正二年(一九一三)スクール街にハワイ日蓮宗別院を開設した。
別院の第二世は大場玄勇、第三世絹谷顕保、第四世末藤弁、第五世渡部公允、第六世生駒恵純、第七世望月桓龍、第八世沖原龍進、第九世飯島貫実、第一〇世堀通が歴代主任である。
歴代各師は開監督(開総長)を兼ねそれぞれ布教に成果をあげ、特に望月桓龍の功績はいちじるしい。
戦後抑留より帰布し、不在中荒廃した別院を復興し、昭和二八年(一九五三)管長代理久保田正文を招じ、開教五〇周年慶讃大法要を修し、ハワイ島ヒロに教会を移転し会堂を新築した。
昭和三二年パーリハイウエイの現在の地に約六〇〇〇平方(メートル)(二〇〇〇坪)の土地を購入、本堂を新築し、スクール街の旧地所にはアパートを建設、その収益を開費の一部に充当した。
沖原龍進は祖の尊像を造立して、御宝前の荘厳を完備し、二百数十人を収容できる集会場を建設した。
また行学道場を開き二世三世を中心として、日英両語による仏教概論及び日蓮学の講義を行い法華経読誦唱題行等を指導し、満二ヵ年毎日曜毎会五〇余名が参加修行した。
昭和四八年、堀通は宗務総長渡部公允を大導師に迎え開教七〇年の慶讃法要を盛大に修した。
現在別院には主任のほか、次席開師辻村行遵が駐在し、ワイアワ、プーネネ、ヒロの各教会には阿仁屋妙隆、上田明誠、水野妙耀の各尼僧が主任として駐在している。
またホノルル妙法寺は初代以外、各歴代は日蓮宗の僧であり、現主任は池永英常である。

〔北米〕北米開区と定められた北米大陸の開布教を北米開教といい、教会・開教師・信徒の集団を日蓮宗北米団という。
区としては別にハワイ開区及び南米ブラジル開区がある。
北米開区には九教会布教所を有し、一二人の開教師が布教に当っている。
以下教会布教所を記せば次の通りである。
口サンゼルス日蓮宗身延山米国別院(藤原良法・助員前角妙経)、サクラメント日蓮仏教会(小川如洋)、シアトル日蓮仏教会(金井勝海)、ソートレーク日蓮仏教会(山崎恵召)、ポートランド日蓮仏教会(川添裕照)、シカゴ日蓮仏教会(斉藤哲秀)、カナダ・トロント日蓮仏教会(荒川要博・カナダは北米と隣接地であるため北米教団としている)、ガーディナー日蓮宗本法寺別院(生田観周)、サンノゼ日蓮宗妙覚寺別院(松田竜紹)、ポートランドみのり会布教所(木立随学)、サンフランシスコ米国仏教研究会布教所(釈日決)。
北米大陸開の沿革は、大正の初めロサンゼルスに日蓮聖人を讃仰する「日蓮研究会」「白蓮会」があったが、大正三年五月二三日、旭寛成(近代日蓮宗開教布教の父として知られる第一八代管長旭日苗の法嗣)によりロサンゼルス東二街に「北米羅府日蓮宗教会」が創立され、同年六月二三日東一街六一四に移転した。
次いで大正四年管長旭日苗の親教巡錫を得、ここに北米大陸開の創始がなされたのである。

次にロサンゼルス日蓮宗身延山別院から順次その沿革を記す。
ロス別院は北米大陸開創設の本拠であり、開創第一世旭寛成、第二世北川日昇、第三世山下義静、第四世遠山潮徳、第五世池田順、第六世沖原竜進、第七世石原慈禎、第八世藤原良法と法灯を継承し現在に至っている。
その、第五世池田順代昭和五年東三街二八〇〇号に教会を新築移転し、昭和一五年二月一一日第七世石原慈禎代に総本山身延山久遠寺より身延山米国別院の称号を授与され、日蓮宗身延山別院と改称している。
翌一六年第二次世界大戦勃発により別院の閉鎖を余儀なくされ、終戦後、同人により布教が再開され、昭和三五年第八世藤原良法代に境内地を四倍に拡張(五〇〇〇平方(メートル))すると共に本堂客殿庫裡を新築し、昭和四〇年建築発願式及び昭和四五年落慶式に第四一代管長藤井日静の親教巡錫があり、その後、昭和四九年北米開教六〇周年記念に第四二代管長金子日威の親教を得ている。
サンフランシスコ日蓮教会は、大正一〇年鬼木泰教の創設によるが、その後、昭和九年沖原竜進により定着を見、第一世鬼木泰教、第二世沖原竜進、第三世青柳日法、第四世飯島貫実(兼務)、第五世池田順康(兼務)、第六世中條令紹を経て第七世五十嵐顕城の現在に至る。
サクラメント日蓮教会は、昭和五年秋、池田順教(当時ロス別院主任)の努力により、この地に教会設立の機運が盛り上り、昭和七年五月八日仮会堂を建設し、第一世として末藤弁孝が就任、第二世石原慈禎、第三世小田弁明、第四世倉橋智教、第五世飯島貫実、第六世池田順康、第七世中条令紹、第八世釈日法(旧青柳)、第九世小川如洋(現任)に至っている。
昭和四三年小川如洋代に現在の地に教会を移転し、新会堂の建築に着手、昭和四五年完成、翌年六月日蓮聖人聖誕七五〇慶記念落慶式を修した。
シカゴ日蓮教会は、昭和二六年七月、荒川要博が第二次世界大戦により米国日系人は三ヵ月収容所に入れられ終戦後の米国政府の北米東部日系人分散方針により日系人が東部に移住することを見通して東部開教を決意しポートランドの教会からシカゴに移住、布教活動を続け、昭和二七年四月一八日仮会堂を建立し、第一世として就任した。
その後、本格的会堂の建立に努力し、昭和五二年八月二八日、現在のポライナ街に新会堂を移転、開堂式を管長名代及川真学はじめ、日蓮宗海外布教後援会有志の出仕により修した。
第一世荒川要博、第二世斎藤哲秀(現任)。
カナダ・トロント日蓮教会は、昭和五年荒川要博を主任として迎え、キーファー街に教会を設けた。
昭和一四年第二世江崎前奎が就任、第二次世界大戦の勃発と共に閉鎖、その後、昭和二六年、米東部開教をめざした荒川要博により再開され、昭和三三年江崎前奎が復帰し、自宅を教会として再発足、昭和五二年二月二四日江崎前奎遷化により荒川要博が三主任となり復興に努め、昭和五四年に新会堂を建立した。
第一世荒川要博、第二世江崎前奎、第三世荒川要博。
シアトル日蓮教会は、教会創立以前から「日蓮宗同心会」という信徒組織があり、大正五年七月、開教主任として丘竜潮が迎えられ、昭和四年第三世沖原竜進代現在の新教会堂建立、昭和一〇年第四世村野宣忠の代に教会ホールを建立したが、第二次世界大戦のため閉鎖され、終戦後再開の後、昭和二三年第七世生田観周代に開教師会館を新築し、昭和三七年北米教団大会を開催、昭和四〇年には第四一代管長藤井日静親教により創立五〇周年記念大会を挙行して現在に至っている。
第一世丘竜潮、第二世加藤恵康、第三世沖原竜進、第四世村野宣忠、第五世飯島貫実、第六世小田弁明、第七世生田観周、第八世西ヶ谷海俊、第九世松田竜紹、第一〇世金井勝海(現任)。
ソートレーク日蓮教会は、昭和二六年倉橋智教により布教が開始され、昭和二九年一〇月二八日、釈日法により教会が創設された。
第一世倉橋智、第二世釈日法(旧青柳)、第三世小川如洋、第四世大沢寛雄、第五世金井勝海、第六世山崎恵召(現任)。
ポートランド日蓮教会は、大正一二年以来開に努めた沖原竜進が、昭和五年創立し、同七年信徒の協力を得て敷地を購入し大会堂を新築した。
初代主任に沖原竜進を迎え、以下第二世石原慈禎、第三世加藤恵康、第四世荒川要博、第五世倉橋智、第六世木立随学、第七世大柳一秀、第八世中村泰、第九世川添裕照(現任)により現在に至っている。
サンノゼ妙覚寺別院は、京都本山妙覚住職及川真学が北米開教の志を立て、昭和五三年妙覚寺別院設立の趣旨を打出しサンノゼに松田竜紹を駐在させて、寺院建立の土地を定め、昭和五四年設立認可を受けて寺院建立に着手中である。
ガーディナー本法寺別院は、昭和四一年生田観周がガーディナーの自宅を教会所として開放し、布教活動を続け、昭和五三年、教会設立の機運高まった折、京都本山本法寺住職北村行進より「本法寺別院」の称号を授与されガーディナー本法寺別院として創設された。 第一世生田観周(現任)。
ポートランド布教日蓮宗みのり会は昭和四八年木立随学がポートランドの自宅を開放して信徒を集め開始した布教所である。 第一世木立随学(現任)。
サンフランシスコ布教研アメリカ教研究所は、昭和四四年釈日法が、自宅をアメリカ人学徒の教研究のために提供して創立させた研究施設である。 第一世釈日法(現任)。
以上北米大陸における布教拠点に駐在して開教に貢献した開教師の歴世を記したが、この他聞教助員として三年あるいは二年各地に駐在して布教に挺身した人師は数多い。

「北米・カナダ・ハワイ日蓮宗教会」 サクラメント日蓮教会・小川如洋。
日蓮宗身延山別院(ロサンゼルス)・藤原良法。
ポートランド日蓮教会・川添裕照。
シカゴ日蓮教会・斎藤哲秀。
シヤトル日蓮教会・金井勝海。
ソートレーク日蓮教会・山崎恵召。
サンノゼ妙覚寺別院・松田竜紹。
日蓮宗みのり会(ポートランド)・木立随学。
アメリカ研究会(サンフランシスコ)・釈日法。
サンフランシスコ日蓮教会・五十嵐顕城。
トロント日蓮教会・荒川要博。
ハワイ日蓮宗別院・堀通。
ヒロ日蓮教会・水野妙耀。
プウネネ日蓮教会・永山竜瑩。
ワイアワ日蓮教会・新海妙晁。
ホノルル妙法寺・池永英常。

〔ブラジル〕戦前ブラジル移民に互して渡伯した日蓮宗僧侶木口正允、小林日種、大月超亮がいたが、当時の国情や開拓初期の邦人社会にあって私的な立場上、教線の拡充とか教会の設立には至らなかった。
第二次世界大戦後、ブラジルも各に傲って信教の自由を是としたが、絶対教であったカトリック的習慣からの脱皮は容易ではなく、日本がアメリカの支配下から離れた時、移民は再開し僧侶にも永住権が認められた。
戦後もなくチエテ植民地の今西啓太郎が中心となり、日蓮主義晴明会を組織、会報を発行し祖道の普及に努めたが、指導者の移動や当の混乱期のため短期で自然解散した。
昭和二七年、北米より青柳正法が渡伯、パラナ州アサイを中心に布教活動に専念したが、情により二ヵ月余の短日月で退伯を余儀なくされた。
南米における本格的布教活動は昭和二九年、増田日遠管長の特命を帯びた石本恵明(福井県本行寺修徒)が赴任、聖市カストロ・アルベス街三〇一に南米開教本部を設置、八月一五日(後に南米開教記念日と判定)当時一三家族の信徒と共に、開教布教宣言したことに始まる。
当初、石本恵明は都市開を中心として、全伯を網羅する行脚布教五ヵ年の計をたてると、言語・気候・風土等、文字通り零地点から出発する未知数の大陸団の開拓に挑んだ。
昭和三一年一〇月、パラナ州アサイに青柳正法の足跡もあって、開教支部・妙旭寺教会が完成、パラナ州の一つの開拠点となった。 これが南米における最初の寺院である。
昭和三二年七月、セントラル線スザノに開支部・妙光寺教会が完成、開本部修徒松下恵稔が就任した。
同年一一月、南聖開区リべイラ河畔に、水難者迫悼碑の除幕開眼が厳修され、初めて五字七字の灯篭七個が流された。 この法要は当初の頃、障害があったが、年々隆盛となり、後に貫通した一一六号際道路の名物となり、その壮観は南米大陸に知られるようになり、ブラジル土及びブラジル人のに定着した。 唯一の教行日蓮宗)として発展していった。
この年五月、石本恵明は第二子を亡くし、六月には師父日道が遷化、後継問題と南米団黎明期の苦衷にたち、その進退に悩んだが結局踏み止まることに意を決した。
昭和三三年一月、小野正光が着任、開本部参勤アサイ妙旭寺教会の主任に就き、パラナ州管区全域を委され、開教布教に努力を傾注したが、師父の都合により二年余にして帰、代って開本部修徒宮本明岳が入ったが、人材不足による指導念の欠如が目立ち、宗門当局に再三その要請をしたが打開策はじられなかった。
昭和三五年七月、南米別院の第一期工が了えたのを機に、南米教団の規約改正を行い、従来の南米開教本部を南米開教本庁と改称し、教監室務局を設置した。
地方寺院は開支所・何々寺分院と改称。
地方寺院は南米別院地方理を兼ねて再発足した。
また聖市を軸とする開管区制が敷かれ、各管区傘下の開区代表者会議(中央集議会)をもつようになった。
九月第一回全伯檀信徒協議会総会が催され、日蓮宗南米団としての、組織体制が順次整っていった。
南米別院では月例法要を中心に、仏教文化研究会(法華経講座)、御書拝読会、唱悪行、橘婦人会、青年会あるいは先達の信行養成、幼稚園、日本語学校を開設し、青少年の化活動も充実していった。
昭和三七年一〇月、ノロエステ線サント・ポリスに妙覚寺分院が完成、修徒河田竜玄が就任した。
これら地方線の布石により、団の地図は大きくぬりかえられていったが、当然、人材過疎による団の組織維持に条件が重なっていった。
昭和三九年八月、開一〇周年を記念して、ポルトガル語による『日蓮聖人のみ教え』を発刊、文書布教にも一そう拍車がかけられ、またサン・パウロ総合大学から招かれ出した。
線は更にのびて北はアマゾンの入口べレンを中心に流域布教、南はマットグロッソ州からパラグワイに及んでいった。
この一〇年の開布教行程は、実に二八万(キロ)を記録した。
自主開というよりも、暗中摸索の僻境に在って、狐立無援に耐え、二進一退の試行錯誤による身心の疲労は極限に達し、大病と故の死線を二くぐりぬけねばならなかった。
昭和四二年五月、ハワイ一〇〇年祭式典のブラジル代表に推された石本恵明は、このに北米、ハワイ両別院を訪問、宗門当局に南米団の現況報告及び陳情のため、一四年ぶりに訪日した。 帰途、東南アジアの跡、ヨーロッパの情を視察して帰伯。 その後、宗門当局の海外布教に対する腰の弱さが理会の一部に誤解を招き、宗門離脱の不詳の声が末端まで波及し、南米団は大きく動揺したが東奔西走一年の歳月を費し抑制した。
もしこの、当局が積極的になんらかの対応策をとっていたら、南米団の路線ははるかに変容していたかもしれない。
昭和四五年九月、予定よりはるかに遅れて南米別院が完成、久保田正文管長御名代を大導師として、田中日堂宗門代表臨席の下に、その落慶大法要が盛大に挙行された。
また宗門から南米別院に御本尊が下附された。
布教宣言より一六年の歳月を数え、南米大陸の一大拠点が確保された。 そして八開管区、三八開区を敷設、開支所三分院の設立等、漸くここに南米団の確立をみるにいたった。
昭和四六年四月、宗祖降誕七五〇年を記念し、南米別院から初めて一五〇名による訪日団参が組まれ、総本山を始め霊跡参拝が行われた。
五月スリランカから御舎利が奉持され、その分布式典が清澄山において荘厳裡に挙行された。
初めて赤道を南下した御舎利は九月、南米別院の仏舎利塔に奉安され、僧侶一〇八名による久遠偈写経が経蔵殿に同に収められた。
昭和四七年、ブラジル独立一五〇年を卜し、宗門の協援とブラジル信徒の結集による日伯親善「平和の鐘」が鋳造され、九月南米別院においてブラジル国朝野を挙げて、盛大にその入魂法要と懸架式典が行われた。
昭和四八年一月、増築されたサルナート学園は、定期林学枚がもたれ幼少年化の洗心道場を開設、改めて将来二〇年の計の第一歩を踏み出した。
海外開地の全てがそうであるように、世代の交替期は教指導方針の過渡期でもあり、この大きな課題は当者の指導念と宗門当局の援助如何によって解決されるであろう。
当分、南米別院では開二五周年の記念として、八〇〇人収容のサルナート会館建設に主眼をおいているが、まだその方策に明るい兆しがない。
(吉田文堯・渡部日皓・三谷会祥・松村寿顕・小川日進,沖原龍進・石本恵明・平野日将・渡辺一之)

【補記】上記は昭和五六年発行『日蓮宗典』掲載の内容である。「樺太」の説明に【補記】を加えた。

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