曹洞宗
曹洞宗
そうとうしゅう
中国禅宗五家七宗の一つで、日本禅宗三派の一つ。
中国・唐代の洞山良价(八〇七-八六九)を派祖とする。
宗名の起源について、洞山良价の「洞」とその弟子の曹山本寂の「曹」とを取って倒置して曹洞宗と称したとする説と、曹渓慧能の「曹」とその法孫洞山良价の「洞」を取って曹洞宗と称したとする説との二つがある。
洞山は高安県(江西省)にあって禅風を鼓吹し、その嗣曹山も江西省の荷玉山に住して宗旨を挙揚した。
初期曹洞禅者の宗風の特色は、世に出ることを好まず、あたかも枯木のごとく坐禅することにあり、彼らは枯木衆と呼ばれていた。
のち曹山の法系は早く断絶し、洞山の法嗣雲居道膺の一派が曹洞宗を代表するに至った。
しかし宗風はほとんど隆盛になることはなく、北地より浙江省に教線を移動した程度である。
目本曹洞宗は入宋して天童如浄(一一六三-一二二八)の法を嗣いだ道元(一二〇〇-五三)によって開かれた。
中国では如浄の法は永く伝わらなかった。
また宏智正覚の系譜(宏智派)は、東明慧日や東陵永璵によって日本に伝えられ、鎌倉・京都の五山禅林に進出し一時隆盛を極めたが、戦国末期に外護者朝倉氏の滅亡によりその法灯はとだえた。
日本曹洞宗では永平寺を開いた道元を高祖とし、総持寺を開いた瑩山紹瑾を太祖とする。
道元は内大臣久我通親の子として生れ、母の死によって無常を感じて出家し、比叡山で天台を学び、次いで建仁寺で栄西とその弟子の明全から禅を学んだ。
二四歳の時に入宋し、如浄と出会い禅の真髄を究めて嘉永三年(安貞元年=一二二七)帰国した。
この年を立教開宗とする。
寛元二年(一二四四)、道元は越前に大仏寺(後に永平寺と改める)を開き、根本道場として、座禅の道を説き続けた。
日本曹洞宗は瑩山紹瑾が出るにおよんで、教団として確立し地方発展の基礎が築かれたのである。
瑩山は能登に総持寺を開き(後に鶴見へ移る)、道元の否定した祈祷・儀式などを取入れ禅の民衆化に努めた。
曹洞禅の特色は「只管打坐」を基本とする正法禅である。
道元は師の如浄から受けついだ禅は仏祖単伝の正法であって、これを禅宗と呼ぶことさえ誤りであるとし、宋朝風の純粋禅を唱え、あらゆる方便を捨てて専ら座禅に徹することを力説したのである。
道元は山林にこもり世俗との交渉を断ち、純粋な出家主義を主張し「只管打坐、即心是仏」の道を修したのである。
同時代に生きた日蓮聖人は、末法の時代と社会と民衆を救済する唯一の法は法華経のみであるとし、妙法五字の流布に努めたのである。
その聖人の立場からすれば、坐禅によって末法の凡夫が仏と成るなどとは「天魔の言」であり、只管打坐により個人の成仏を求めることも、また菩薩の道でないと否定されたのである。
《『道元辞典』(東京堂出版)「曹洞宗」の項、『岩波仏教辞典』『国史大辞典』八巻「曹洞宗」の項》